英語の話もしたかった
無駄に自分を悪者にするのは鏡の話で言ったら、自分が他人を悪者にしているっていうことになって、自分にうんざりする。どっちが先かっていうのは分からないけど、基本的に自分を許していないという気がする。自分の本音がよく分からない。他人に自分を許していないっていう側面もありそうで、ここが自分の柵の本質なのかもなと。
ともあれ。
書の比率をずらして、死について! の読書量を上げた。まだ行くかどうか決めきっていないけど、あと3日半で残り500頁くらい、読み切っておきたい。予約するよりは、当日ふらっと行って当日券で入場してみたいのだけど、作法が分からないからきっとどぎまぎする。予約と当日の差額が主催者に入るのかなって思うとっていうのもある。いっぱいで入れないっていうこともあるのかなぁ。そうなったら京都でいっぱいやって帰ろう。電気ブランで。
さておき。
死の話の前に、スーパーと出退勤ラッシュでの人の動きから見る人の意識の変化。
昔からそうだったっていうのもあるのかもしれないけど、僕がこれを知覚したのは去年くらい。書く機会が無かったから、1人悶々していた。人の流れってだいたいまとまっているのだけど、流れを乱すの個人単位ではなくなってきたなと。
スーパーで言ったら、スーパーが思う動線を辿りながら自分の目的のとこまで行くっていうのが流れだったはずで、僕は流れを避けて行っていたけど、流れを避ける人が増えすぎて混雑しだした。気の所為なのかなぁ。
やれやれ。
原案の本は、アメリカだから、アメリカとしての死っていうのもきっとある。
銃がある世界は、ない世界よりもきっと死が近い。ということで、ちょろっとアメリカの銃社会について調べてみた。個人的には薬局でロキソニン買うくらいのレベルかなって。たしかに買うためには審査があるらしい。審査自体は厳重みたい。けど、個人間の譲渡は認められるとのこと。ここも厳重だってなるけど、非合法の人が集めることまでは規制は届かない。という意味では日本で言うと、銀行とかの口座に近いかなって。しかし、危険度が全然違う。そりゃあ、自衛のために銃がないと困るわなって。自分が住んでいる所の鍵だって、銃が在ればぶっ壊されるって考えたら、不安でしょうがない。
もうちょっと考えると、死が近いっていうのは統計的に近いというだけ。個別的に見れば人は何かの拍子に死んだりするし、自分が死ぬ確率が低いっていうのは、統計的判断でしかない。
マジョリティの人の不安感ってどの段階なのだろう。
死が発明品だっていういうのの続きは、死は生者のためにしかない。
変な話、疎遠になってもう交信することは全くなくなった友人は死人か否か。
父親の49日か何かの集まりで、お坊さんが、死んだおかげで集まることができて故人のことを話せる場ができた、みたいなことを言っていて、当時姉はめちゃくちゃ怒っていた。姉の日記も美味しかったのだけど、今や姓が分からないから読めない。
でも、お葬式とか言った儀式っていうのは、生者が死者を悼んでいるっていう場をわかりやすく提供することにある。
本当に死者を思うなら、誰にもわかりやすく表することなんて要sらないような。
あとは、生者が備えるためっていうのもある。
保険と近いけど、自分の生の外を先に観念化しておく意味合い。
だいぶ時間おーばーだからおしまい。