硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

好き嫌い

 

なんとなくパソコンの調子が悪い。調子が悪ければ言葉は残せないし、それだけ脆い電子機器。代替性は確かにあるし、本当に残したいのであれば、媒体は限られない。手書きだと物理的に読める人が限られているっていうのもきっとあるし。僕は字が下手だから遺品整理で僕の痕跡を探ろうとした人が万が一入れば解読が大変だろう。ちなみに僕は父親の痕跡を探って日記は見つけた。ただ、文量がツイッター水準だったし、中身はあまり書かれていなかった。

 

フリーズしたら困るから、ちょくちょく上書き保存しながら書くか。

 

 

ともあれ、しばらくは死に囚われたことを書く。っていっても、自分で自分を殺す方向ではなくて、純粋な死を取り出して観察するだけ。自死1つの表現なのではって思ってきたから、そういう表現は面白くない。不謹慎な気はするけど、誰に対して?

 

 

死について! を書いた人は、仕事! っていう本で何か賞を得たらしい。だからか、4人読んだ段階で、死と仕事はなんだかセットなように読めた。そこから進めると、肩書も割と仕事に近いかなって。父とか母。違いは、、そんなにあるのだろうか。

 

家族は肩書ではないっていうことも考えられるけど、当人がどう考えているかはここではあまり関係ない。他人に伝達するためには、省略できる情報はできるだけカットするというだけ。ここの中身は相手に伝えないっていう意思とセットという可能性もある。

 

 

では、取り出した死の話。

 

 

言葉が人類の発明品だとすると、言葉で表現できる概念は発明品で、死もそこから免れない。

死は自明なものだって思う人は、まともな感性を持っている人。おそらく肉体の活動停止が死と直結している。わかりやすいし分かるけど、なんかそうなると精神を度外視することにならんだろうかと。例えば、植物人間になるようだったら生命維持装置を外してくれって意思表示をしてたのに、生命維持だけでも生だってエゴで意思を度外視するとか。

 

 

ところで、法律を一言でいうと、基準を作ることにある。厳密に言ったら諸々あるけど。

 

法律の生死の基準も肉の死を中核としている。

 

 

精神は法律では守られない。

 

もっと書きたい思想は在るけれど、限界なのでおしまい。