硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

個別化

 

 

鶏むね肉と白菜のオイ醤油炒め。鶏胸肉がどうやったら柔らかくなるかを分析している人の記事を見ながら。胸肉一塊だと筋繊維が3ブロックで違うから、それぞれの部位に合わせて直角に切ると良いとか。個人的には下味に砂糖を加えるのを推しているけど。

 

小松菜ともやしと人参のナムル。ナムルはだいたいレンチンで済ませているけど、茹でるとやっぱり違う。色も鮮やか。ごま油と塩昆布と鶏ガラスープと塩コショウ。でもレンチンだと栄養が流れないっていう説もあるらしい。あとは目玉焼きと大根サラダ。大根は調理法によって装いが変わるけど、なんだかんだ1番好きなのは生かも。

 

 

さておき。

 

仕事を振られると結構安心する。なんだか、仕事を振るためにあくせくされている感が見えて、結構生きづらい。良く分らないけど、ベルトコンベアとあまり変わりないのだろうなと。ベルトコンベアではない仕事なんてそうそうないだろうけども。

 

 

やれやれ。

 

そういえば、命題コレクションに羞恥とはなんぞやっていうのがあった。

精神的な感覚と動物的な感覚の不一致とか、普遍的な認識と個別的な認識の隙間とかいう所みたいだけど、あまりしっくりこない。集団に属するとき云々っていうのはなんとなく。

 

 

 

日本に絞ると、ミスが駄目なものっていう共通認識がミスしたら恥ずかしいっていう感情に繋がっているのではないかって思ったりする。ミスはしないことに越したことはないけど、このミスっていう観念はきっと機械で代用できる。

 

要は外れることは恥ずかしいということ。

 

 

 

この話全然楽しくない。

 

まぁ、自我の同一性が揺らぐときに羞恥を感じるっていうのはなんとなく分かるし、羞恥の観念には自己認識が基礎にあるっていうのも分かる。

 

一般論としてはそうなのだろうけど、僕個人だと、別に自我に同一性があるとは思っていないし、自己認識も全然確固としていない。ということになると、恥ずかしいっていうよりは、萎縮の方が近い。

 

羞恥を萎縮に言い替えたらだいぶしっくりくる。

 

 

 

恥じらいは好きだけど、これは個人的な関係の中だから、羞恥とはちょっと違う。

 

 

 

あとはなんだっけ。

 

 

 

夢の話でも。

 

なかなかリアリティあった。

実家で寝ていて、火事というか警報みたいなことが鳴って、すぐ父親と妹を起こして離脱したら、消防隊員みたいな人に避難するの早いですねーって言われたのが第一場面。なんでこの二人なのかっていうのは不明。

 

第二場面は、存命のおばあちゃんの死に際に手を握って泣きながら別れたのだけど、事後に親戚筋に、そんなこと喜ぶより死後硬直の前に手の位置を胸の前にクロスさせとけよっていうダメ出しをくらう。起きたときにそういう礼儀あったっけって思うくらいの現実感。

 

 

 

結局のところ、なんなのだろう。

どれだけ頭を回した所で自分には届かないけど、皆暫定的な自己認識で決断しながら生きているのかな。

 

以下言語化できないからおしまい。