硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

普遍的なみ

通勤中雀がなにかを突いているのを見かけた。良く見ると小さなカナブンだった。雀のくちばしで甲虫を貫けるのかしら。グロテスクなのかね。実家だとダンゴムシなんて可愛いもので、百足、ゲジゲジ、カナブンのサイズも鮮やかさも比ではないし、スズメバチは顔が付いているやつをよく見かけていた。後ろのほうはクワガタとかカブトムシを採取している時が主だけど。幼少期顔が付いてないスズメバチには刺されたことあるけれど、3日くらい熱出して寝込んだ。あれは首だったからなのか、末端だったらもう少しマシだったのかは知らない。

 

マムシとかヤマカガシとかの毒蛇も居たし、この長い長い下り坂を自転車に乗ってー、暴走していたし、生存可能性で言えばはるかに低かったのに良く生きていたものだ。

 

いや、生存可能性で言えば、都会の方がはるかに低いのか。良く分からないところ。車が突っ込んできたり電車が脱線したりそこに地震が複合されたりっていう可能性だったら、熊が居ない田舎で毒蛇とか蜂に刺される可能性の方が低いか。人口密度が高くなればなるほど異分子という犯罪者の比率も増えるだろうし。

 

 

ともあれ。

 

今日は、かなり嫌な夢を見た。逃げても逃げても纏わりつく同性からの粘着的好意。アレは結構トラウマレベルだったのかなぁ、と。走って逃げた先に居る。捕まったらどうしようもないのは分かっている。好意なのに。最終的にはタクシーに飛び込んで逃げたシーンで終わった。

 

僕の深層心理、どれだけ怖がっているのだろうという感じ。でも、他人を制限するものって、どういう方向性でも「意」のような気がする。しかし、もう1つでもを重ねると、「意」がない相手を変えようとは思わない訳で。変えるは変わると表裏。

 

物好きな人が多い。

じゃなくて。

 

さておき。

 

本の話。

 

職場の近くにあるブックオフに寄ってきた。水滸伝の続きは確定で、翻訳洋書枠を何にしようかと。本当はプルーストの長々したのが良かったのだけどなかったから、次点のドストエフスキーさん。光文社のカラマーゾフの兄弟を読んでいるのだけど、序文読んでいてくすくすしてしまった。翻訳者の力量なのか、原作の普遍性なのかは分からないけど、脳内心象風景は捗る。これって逆輸入的に村上さんの文章に慣れているからかもなという気がする。

 

ここで、仏教を前提とした音素学が収集された。本当はそこの参考書籍を読みたかったなのだけど、ブックオフになかったから、我が家にあるごりごりの仏教学の本にした。仏教とはよりも前の、仏教の成り立ちからの本。佛陀の佛の語源は、覚るっていう動詞の過去分詞なのだとか、ブッタっていう呼称は釈尊以前では色んな覚っている人に使われたとか。

 

ところで、音素学の先生の講義メモに、覚りには知識が邪魔だって言ったらしい。知識があると真実は見えないって。確かにそうだと思う。僕は本をがつがつ読んでいるけど、これって別に知識に偏重している訳ではない。ここでいう知識ってきっと、それ以上吟味しなくて良い結果で、なおかつ自分が他人に説明するときに、これはこういうものだって押し付けられるものだと読んだ。僕は結果としての知識に意味を置いていない。知識に辿りつくプロセスの方しか見ていない。知識というか叡智みたいな結果でそういうものだって言える人は、これが重みになる。僕はその重みを外すために本を読んでいる。

 

 

あと、音素と言語学は通じているなって思って嬉しくなったのが、「言葉といみ」を読んでいて出てきたフレーズ。

 

単語の記号の積み重ねに意味はなくて、「世界のうたいかた」に意味がある。

 

たぶん、悟りっていうのもここに繋がっていて、そういう人が綴る言葉には普遍性があるっていうことだと思う。でも、覚りにも個体差があって、響く何かっていうのはそれぞれで良いっていうのがほんとの悟りだと思われ。

 

文章は左脳を揺らす音楽。

 

僕の文章で揺れる人は物好き過ぎるけど。

 

 

本当は、この先に俗っぽいことを書くつもりだったけど、良い気分を害したくないのでやめとこう。

 

 

おやすみなさい。