硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

こんなもん

転職活動で、パソコンから送ったはずのメールが送られていなくて、デフォルトのメールソフトに不具合があるのではないかと思って、職場で使っているソフトを導入した。大昔の模型アニメみたいな名前のやつ。と、考えると、私的なメールもあまり送れていなかったのかもしれないし、変に無言で送っているのかもしれない。まぁどちらでも良いけど。その文言を送ろうした自分はもういないし、それでどういうことになっているのかは、機器の不具合っていうより、そういう巡り合わせということ。

 

どれだけ言葉を尽くしたとしてもそうそう真意が伝わることがないっていうのとあまり変わりがない。っていう観点から主体で見ると、無限の情報から何を拾うかっていうところしかない。

 

 

そもそも真意という存在も疑っている。

 

この話したっけ。

 

例えば、信念って言うならそれは分かる。自分の中で絶対に揺るがないと表現すること。

この辺りからもう疑問がある。変わらないものは絶対にないし、そう言えるのは拠り所がきっと自分ではないから。

 

 

って考えていくと、本音の瞬間性みたいなところに思い至る。

観察者としての視点から見ればそんなの相手を捉えにくくなるからやめてくれってことになるだろう。為政者の人格に一貫性を求めるとか、他人には厳しいみたいな感覚。

 

要は、他人は自分の混沌よりは整然と整理したいのかな。

ここには他人はどうでも良いっていう観念も含まれるのかもしれないけど。

 

自分が混沌した矛盾だっていうのはすべからく共通項だと思うのだけど、そうじゃないように見える人も多い。っていうのは、きっと、相手に表現するときには自分を決めなきゃいけないことが多いし、その決まった自分が自分であるっていうフィードバックがあるから。

 

 

決められた自分と決めた自分。

 

 

という感じで、混沌を当たり前にしたとしてもその人がその人である定義っていうことがよく分からなくなる。主体で見れば自分が自由に動くときと不自由であるときも自分だと認識しているし、客体で見れば、他人に対しても認識する為の根があるようで。

 

 

客体で一番わかりやすいのは、名前という記号。記号で特定された人は、何を矛盾しようがその記号で括られる。名前制度は良くできている。

 

 

 

結論としては、個人関係で見た時、何か相手を個別に特定できる非言語が存在しているのでは、っていう話。それは、永い年数を一緒に過ごしてきたっていうのもあるだろうし、何か個別な共時性があったり、他の要因もあったりするのかもしれない。

 

人を個別に見るっていうのは、相手の個性を尊重するとかではなくて、相手に対して個別的な自分でいるかどうか。例えば、一般的にはとかあの人はっていう他の視点を持ち出そうとしたらその時点で社会的な関係になる。

 

 

非言語とは、芯。

 

 

最後。

 

高尚なこと言っているようだけど、僕も結局居場所が欲しいのだろうなっていう感じはする。社会の椅子取りゲームとか媚びないと働けないとかどうしようもなく嫌だけど、興味を持たれることは嬉しい。

 

この駄文を読んで貰っていることも自信に繋げれられると良いのだろうけど、そういう感覚はどこを探っても見当たらない。死角というか、あえて見えなくしているのかは分からないけど。

 

ただ、どういう居場所が良いのかっていうのも分からない。

居場所っていうのも結局は信念と一緒で、自分が決めたらそれで良いのかね。

 

 

おしまい。