硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

大事なもの

今日の夢もなかなかぞっとした。あれ、ぞっとしないだっけ?

 

家族で車に乗っているのシーン。助手席に乗っているのに、ハンドル操作だけ僕がやるというよくわからなさ。まぁ車の夢は思い返すとよく見ているような気がする。だいたい事故しているけど。事故も人身ではなくて、例えば海岸線でガードレールを突き破って海に落ちる浮遊感を感じるやつ。その後沈みつつある車から脱出するもある。なんだろうね。ペーパードライバーなのに。

 

その後がなかなか。重力がどうなっているのか分からない世界。斜面になっている田んぼみたいな泥沼を登っていくシーン。田植えは実体験であるから、感触が生生しかった。登場動物にウミヘビみたいなやつとかは流石は夢だけど。そこで僕は効率的な足の上げ方を意識していた。泥の抵抗、坂の抵抗。

 

それで、その斜面を登った先に何があるかというと、大きな惑星があった。月の衛星写真みたいなむき出しの地面で、サイズは自分が居る場所より遥かに大きい。このサイズ感の情報をみた実体験の記憶がない。ついでに、ここまで繊細な画像が自分の中にあるというのも。一番近い距離の部分に大きな目があってぎょろぎょろと動いていた。その目が大きな声で笑うの。かっかっかって。その瞬間に目が覚める。

 

目が覚めた現実では外でカラスが同じように鳴いていた。カラスの鳴き声は笑い声にも捉えられるのねって。

 

まどろみで知覚するものの無駄なリアリティ。多分心霊現象と繋げてしまう人もいると思うけど、布団としわが自動で人の顔に認識されたりする。まぁ一般的ではないだろうけど。

 

 

ともあれ。

 

ご飯は省略するか。苦手な叔父さんの話があったけど、まぁ良いや。

 

 

本の話が本題だけど、その前に仕事の話。

 

なにやら、人との会話の楽しさに目覚めている。僕は自分を言葉で分かってもらおうっていう観念がほぼないから、会話っていうのは語られるものだっていうのがデフォルトだった。

 

この職場だと、むしろ自分が言語数を増やして相手に分かってもらわないといけない。こういうコールセンターもなかなかないと思うけど、相手に届いて納得されたときって声の表情が変わるの。このばちっとハマった瞬間が好き。自分が良かったじゃなくて相手が良かったっていう意味で。こういう自分の実感を分析すると、教職もありだったのだろうなって思う。あと、自分が納得していないことは人に上手く説明できないっていうのも面白い。その部分に対してピンポイントで詰められる。

 

ここでの結論は、人って面白いなということ。ただ、僕は自分を言葉で説明できるとはおもっていないという齟齬。というか、人の中身は言葉では叙述できないだろうって思っているというか。だから、なんの対価がないところにおける言葉の価値がおそらく一般的なところからだいぶズレる。

 

 

やっと本題というか本の話。

 

佛教の続きとか、歴史とか政治とか。

 

世の中に政治が必要なのは、個々人の原初的な衝動は共同生活にそぐわないから、うまいこと調整する指標が必要だということらしい。確かに一般的な人はやりたくないことでやらなくても良いならやらないと思う。それをやらないといけないことだとして円滑に動かすのが政治。政治学入門、薄いけど面白い。

 

歴史は、中世の人にとって夜はどんな意味を持っていたのだろうっていうコラム的なフレーズが印象的だった。この時代で犯罪として一番警鐘されていたのは夜打ちというものらしい。今や夜って開発済みの領域だけど、照明もない、防犯もない時代の夜への畏れって、子供時代に暗がりが怖かったっていうのが一生続くことではなかろうかって想像するとなかなか響くものがある。

 

 

そうして、仏教。

 

仏法僧の法の部分を読んだ。法には法律とか倫理感みたいなものが含まれるけど、根本は理法っていって、人が人を保つ法ということらしい。例示として、人は社会の中で色んな役割があって、役割ごとに求められる道があるということだった。家族としてとか夫としてとか妻とか姉とか諸々。

 

ただ、これって、この当時はそういうものだったという話であって、ジェンダーロールとかではない。ここを切り取って継承したのが儒教なのかなって勝手に思いついた。

 

仏教に流れている思想が無常であることを前提とすると、役割としての理想的な姿という話ではなくて、役割に当人が立った時にその人個人がこの役割で何ができるかを追求しなさいっていう話だと思う。だから、この役割の人はこうあるべきみたいに役割から外の人が語るのは全然違う。

 

現代に引き直すと、自分が役割を取っ払われたときに自分を保てる法とはなんぞやってことだと思う。規定された自分じゃなくて規定した自分がどうあるか。この時に性別とか年代とかに囚われているなら、まだまだ修行が足りないっていうことになりそうな。

 

ここからは仏教の話ではなくて、個人的見解だけど、役割とか属性で人を括るっていうこと自体は、思考とか警戒とか言動の省エネとして合理性があると思っていて。身内は個別に考えられたとしても身内の外を個別に捉えるって、物理的に厳しいのは分かる。この文脈で自分を捉えて、外に向かうと自分の属性とか役割とかに偏重した世界になるのだろうなと思うけど、これを間違っているとも言えない。皆きっと仲間を外に求めるのだろうし。

 

現在日本には原始仏教が処方箋になるのかもと思う今日この頃。

 

 

 

おやすみなさい。