硯に向かいて

ただの垂れ流し

レビュー

リスニングは継続。行き帰りの満員電車の苦痛より、外観遮断して聞いている方が楽だから継続するしかかない。2倍速だから、もう多分3周目くらいになっている。と、思うと今までもったいなかったなぁと。どうせなら落語とか聞いておけばよかった。

 

耳はいつも自動的に外界を聞いているから、集音させているだけで全然勉強と思ってない。最終地点は日常で英語のサイエンス記事を読めるようになりたいだから、まだまだ先は長い。

 

 

さておき。

 

明日は一次面接だから履歴書を書いていた。自分の字はどうしても好きになれない。汚いし、同じ文字なのに次は同じ形にならないっていう読みにくさ。僕の字を良きと評価してくれた人が大昔に居たけど、あれは歓心を得るための甘言だったのだろうか。

 

志望理由欄は少し苦労した。文字数ではみ出してしまうっていう。書きたいことはいっぱい

あったから削る作業が大変。でも削る作業は増やす作業とは違った意味で面白い。要るところと要らないところを選別するのは自分が大事にしているとこは何処を決めること。削った言葉と増やした言葉ってたぶん読み手には伝わる。

 

ともあれ、どうせ口頭で聞かれるだろうから、この削った分を発話すれば良いって思えばここには準備は要らない。

 

筆記試験も正味楽しみだし、この業界初見だから聞きたいことがいっぱいある。

企業研究も、さらっとホームページ読んだだけだけど、気になるところはいっぱいあるから、ちゃんと発話できるかどうかしか問題じゃない。

 

 

僕がこうやって観測するのは、注力したら何かになるっていうメカニズムを疑問に思っているから。社会システムで見たってそうだし。努力すれば全部結果になることはないし、結果を前提とするならそれは努力じゃなくて作業だろうし。恋人関係で言ったって、努力で番になれるわけでもない。

 

結局は縁だって考えると、最低限を整えて、あとは自分を出して丸投げしかなかろうなって。

これはきっとどういう関係でも等しい。最低限が駄目だったら、、、。

 

 

最後。

 

知ることへの恐ろしさの続き。

 

何かをこれ以上知らないように決めるっていうのは、人格を自衛する意味で凄く大事なことだと思う。何かを知るっていう行為は、自分を無防備にすることに等しい。自分の人格の枠内で情報収集っていうのは、知るとはちょっと違う。

 

これを踏まえて、ソクラテスさんの無知の知を解釈すると、無知なことを自覚できる点で人間が優れているっていう意味ではなくて、無知の知を知った人は、もう後戻りできないってことだったんじゃなかろうか。当人も結局身を滅ぼしたみたいだし。

 

 

僕はきっともうそういう領域に入っている。

より恐ろしくなるだけなのに、生きている限り知ることを止められない。

 

っていう風に人格を規定してしまえば、おそらく楽になれる。

対人関係はその後だけど。

 

 

おしまい。

 

 

 

凝縮

英語を聞いているからか、なかなか頭がすっきり。英語にももちろん語彙があって、同じ意味の言葉がどう使い分けられているのかを考えながら聞いている。意味を一個一個把握していくっていう段階ではないから、ただ気楽に聞き流す。聞いていて分かるのは、思ったより自分は英語を知っているなっていうこと。この単語はこういう意味ですって表現することはできなくても、意味は読みとれるみたいな区分けもあるし。

 

僕がコミュニケーション能力苦手に見えるとしたら、脳内言語と発話言語の語彙に乖離がありすぎるところ。内向的な人にはありがちな齟齬。自己主張できないと疎通力がないとみなされる。

 

 

でも、あまり疎通能力ないとされている人の方が有意義な言葉を持っているような。

 

 

 

という感じで、今日は国語の話。

 

 

あるニュース記事で、日本人の3分の1以上は、基本的な日本語の文章を読むことができないていう検証結果が出たっていうのを見た。OECDがやった調査結果だし、それでも日本人の方がマシという結果だったから、なんとなく信憑性があるように思う。

 

でも、調査っていう単語が出た時に疑うべきは、調査対象の範囲と、母数の数。少なくとも僕は調査された記憶がないから、おそらく大学生の授業の一環で取ったのだろうと想像する。

 

けど、その上で、日本人全体とも相関しているだろうって思う。

 

語学って学問の一種だから、国語が苦手だと思っている人は多々いると思う。

日常の言葉遣いに完全に還元できるものもないからゆがむ。語学てってうのは原住民にはほぼ関係ない、他人事の観察の収束。

 

だから、日本人が日本語の文章を読めないのは、そりゃあそうだって思う。

識字ができることと、意味が分かることっていうのは全然違うし、自分で日本語の範疇を決めているし。

 

TOEICと同じような日本語検定みたいなものができたら良いのになぁ。疎通できているっていう錯覚は、お互いに語彙を限定しているからって気づけるのに。多分接客業で人と接している人ですら満点は取れないと思う。

 

 

疎通できている状態が落とし穴みたいなハプニングでしかない。

 

僕がコミュニケーション能力疎いって思われるのは、相手がその言葉の中身に何を込めているだろうって背景を考えるタイムラグで、会話が上手く流れないから。

 

 

やれやれ。

 

そうして、考えるまでもないけど、日本語圏の人は、日本語だいたい分かります、伝わらないのは相手が悪いみたいなスタンスにしていると思うけど、その語彙は、自分の世界で規定されたものでしかない。だって専門用語は分からずスルーするし、説明書とかもあまり読まないだろうし。

 

だから、自分の当たり前ができない人に対して、排斥するか、意味が分からないからもう一回って。他人の発話を読み取れないとき、他責にするか自責にするか。

 

要は、日本語圏内であっても、原住民みたいな棲み分けがある。方言で単語が分からないっていう次元も含め。

 

でも、世界が規定されてしまったら、もうその範疇以外はスルーしないと生きられないんだろうなって思う。僕は絶賛拡張中だから分からないけど、その規定された世界の中で自分の立ち位置を守ることに傾注する、みたいな。

 

って、考えていくと、自他って単なる観測対象でしかないのかなって。

そりゃあ痛いししんどいけど、こうやって観測できる状態がハプニング。次の瞬間天災で脳が潰れているかもしれないし、脳の血管が破れるかもしれない。

 

それでも、悔いは残らない。僕は在るもので良いから、向上とか物欲とかの欲求がない。突発的に死んだ人に、運が悪かったって表する人は多いけど、もしかしたら反対の世界ではこれが上がりなのかもしれないし。やっと肉体から離れたかーおめでとうみたいな。

 

最後。

 

 

知ることは怖いこと。

 

 

知識が増えることは良いことだって風潮だし、知識は世界を開拓するものだって前向きな見解だと思われる。でも、知ってしまったら後戻りはできない。これは、知ったって確定する当人のものさしによるけど、見識を拡げるっていうのは本当に怖い。

 

何が怖いかって、自分が積み上げてきたこととか、ものさしをぶっ壊されて、自分とは何だったんだろうってところに至るところ。切り分けて単なる知ってることってできる人は凄いなぁて思う。

 

 

知るっていうのは踏み込むこと。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ティラノサウルス(後)

 

 

 

さっきのでは自身の生の話。では他人の生とは。これを自分と同じだって言える人は、そうとうな省略がある。こうやって簡略していくと、今この瞬間に肉体的に滅んでいる誰かはどうするのだって。

 

っていうので思うのは、うちの祖母は認知症でもう僕のことは分からない。でも母のことは分かるみたい。これが悲しいと思うわけでもないけど、確かに生はある。これは過去からきた経験としての愛着もあるだろうけど、本当はそうじゃなくて、あのとき優しかったし守ってもらったっていう認識があるから。ただ長く接してたではない。

 

徒歩1分だったし階段もつながって居たから、良く避難しに言ってたのだけどいつも受け入れてくれたおばあちゃん。多分この愛着は、自我ができる前に大事にされたんだろうっていうところ。多分母親が仕事に行っていてる幼年期だっこしてくれてたんだなって。

 

 

でも、こう考えていくと、疎通できることとか肉体とか脳が命だっていう考え方はおかしいなって思う。集団は平気で個人の精神を殺すけど、精神を殺すことは犯罪にはならないのはなんでかっていうと、物証がないから。1番広くきついルールは現実しか規制しない。

 

 

そもそも生死っていう言葉の区分が厳密ではない。

死は誰にでもやってくる。ほんとか? 死って何も考えられなくなるとか肉体の崩壊とかって思うのだろうけど。じゃあちょっと翻して。

 

自分が今まで生きてきた所作を完全に覚えている人はいないけど、だったらその認識されなかった自分は死んでいるに等しくないかっていう問題提起。

 

死が肉体的な風化だけだったら、人間はもっと刹那的に生きているはず。

これだといつかはいつかやってくるし。

 

僕は心霊現象的な体験もウェルカムだけどなかんかやってこない。非言語ではある

のかもしれないけど。

 

 

まぁ霊的なものはきっと何処にでもあるし、日本人は神様が何処にでもあるっていう宗教観だし、繋がりを大事にする風土。

 

僕がいっつも思っているのは、じゃあ、扶養控除とか婚姻の意味が全くなくなった世界でもそのパートナーを選びますか、って疑問。結婚って他の人とまぐあわないように後付で創られた制度だし。

 

 

 

最後。

 

自分が固有であるっていう観念は誰しも自我を保つために在るだろうけど、その観念自体が、ストーリーの続きものでしかない。僕がこうやって考えているのも誰かがやっていることだろうし。で、ここまでくると、自分っていうことを保ってくれる拠り所が要るのだろうなって。

 

要は、現実とは仮想っていうこと。

 

おしまい。

ティラノサウルス(前)

 

あれ、本当に行って来たっけ。日常に戻って来ると夢だったのかと錯覚する。ちゃんと物質として当日パンフレットの美味しい文章とチケットがあるし、道中の電車の中とか、当日券でと言ったら、なにかぼそぼそ相談してくれて前売り価格してもらったり、職員さんはみんなこのイベントに愛着があるのだろうなぁって感じた記憶もある。これらを総合すると、ちゃんと現実として観に行ったのだろうなって結論付ける。

 

現実っていう観念に対して思い出すのは、脳科学者さんの本。何についての本だったか忘れたけど、人間が現実と認識する条件は、五感の複数が同じように反応すること。目で見たものが触れるとか、耳で聞いたところに音源が見えるとか、そんなの。

 

現実ってなかなか危ういところにあるのだなって。もう少し穿つと、現実だと認識した記憶としての過去だって現実を補強しているような。

 

 

現実と生は同じことだろうか。

現実の積み重ねが生だろうけど、非現実を現実に持ち帰るっていうこともあるから、イコールではないか。

 

 

ともあれ、現実感自体も危うい以上、「生」っていう言葉はマジックワードマジックワードっていうのは、中に入れるものが固有だから、相手が自動で変換してくれて疎通できているよう感じられる魔法の言葉。よくよく考えると、自分っていう言葉も割とマジックワード。器に何が入っているかは分からないのに、なんとなく疎通できる。

 

疎通。

 

当日パンフレットの美味しい文章の中に障害者の施設を襲撃した事件のことがあった。当時の情報では、犯人は選民思想の人だなって思ってたけど、新情報で、疎通ができるかどうかっていうのを基準としていたみたい。

 

疎通っていうのも難しい観念。自分が発したことが返ってくるっていうのが中核なのかな。会話のキャッチボールっていうより卓球のラリーみたいな。反応じゃなくて反射か。壁打ちのように返ってくれば疎通。

 

で、この犯人の基準で言うと、おそらく自分も死すべき対象だったんじゃなかろうか。自分のコミュニケーションに対する劣等感の発露、みたいな。ちゃんと誰かと疎通できている人なら、そっちに人生を使って疎通ができないから人間じゃないって思想はきっと生まれない。

 

 

 

僕が演劇を見て想った死は、やっぱり父親。脳梗塞だったか脳出血だとか名前は知らないけど、倒れた直後のシーンが思い出される。脳を揺らしてはないと思うけど、1番最初に触れて、頬をペシペシしたとか、頭の重量感とか、雪がチラチラしていたとか。その後の記憶は

ぶつ切れで、今となってはほんとうに現実なのかは分からない。よくもまぁ今こうやって文章書いているなってくらいは感じるけど。

 

先に感想。

 

初演劇がここで良かった。惜しむべくは、先にインタビュー記事とか原案読まずにまっさらで観たら違ったかもなっていう世界線。これはインタビュー記事のフレーズのあの人のところだっていう情報ない状態で観たかった。

 

演じている人と交信したことはないけど、そらく接したことがあってもあぁこれは作品だって思っただろうなっていうのは変わらない。

 

芸術にはまだ入りきれていないけど、小説は良く読んでいるから流用はできる。本人の人間性の外にあるもの。回転具合とかも計算のうちなのかなぁとか、あの音は秒針のチクタクなのかなぁとか、これは当人にとって成功になるのだろうかとか。疎通じゃないけど、どう伝えたいかと、どう伝わるかにはすごく深い溝があって、その溝を越えてしまったら表現ってもう自分のものではなくなるだろうし。

 

ありがとうございました。

鳥肌が立った非日常でした。

 

 

さて。

 

これを踏まえて、本当の生死ってなんだろう。

 

生の本質は、脳が出力できるところに重きが置かれていると思う。でも、基本的に脳だってポンコツだから、脳が統合する肉体に縛られる必要はない。錯覚しかり、幻肢しかり。

 

 

僕はあんまり生死とか現実非現実を区分けしていない。こういうマジックワードの中核は非言語にあると思っているし。こういう話を人がしないのは、きっとこういうことを語り合うのは疎通の範疇を越えるからだろう。

 

でも一応自己主張はしとかないといけないので。

生の中核は、「縁」かなって。運とも違う。生きていることがデフォルトっていう説は生きていることしか観察できない状態ではそうだけど、彼岸の向こう側の方がデフォルトって考え方もある。こちらからしたら死は落とし穴に見えるけど、向こう側からしたら、おー、やっと帰ってこれたかーってなっているかもしれないし。

 

縁って、この肉体とこの精神っていうのもあるけど、人は常に人に観測されて自我を形成するから、相手との縁っていうのももちろん。

 

で、縁っていう言葉だけだと拡がりすぎるから、下位観念。

縁を感じる時ってどういう時だろうって一般論で考えると、自分の中身が伝達されたことを実感する時。どんな人格であろうが他の人から繋げてインストールされたものなのだし、デフォルトと言えばデフォルトだけど。そうして物理的な時空だと住んでいる場の隔離とかもろもろってややこしくなるけど。

 

続きは後で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脱皮

マスクをしてイヤホンを付けて外界を遮断して出勤。物理的には圧力がすごいのだけど、なかなか快適。昨日買った単語帳にアプリが載っていて、アプリだと音声が無料とのことだったから、入れて見て今朝出勤するときずっと聞いていた。勉強するっていうより、頭をクリアにするには良いルーティーンかも。

 

単語、単語を含んだフレーズの日本語訳、原文のフレーズがひたすら流れるだけなのだけど、それぞれ脳内の可動域が違う。単語。知っていれば、綴りをイメージするとか、高校時代の単語帳で見たけどどんな意味だったかなぁと回転。日本語訳。英訳できるかと頭の中の単語を並べる。原文フレーズ。こう聞こえるのかって収集。一個一個をかっちり習得していくっていう感覚は、捨てた。というか色々やってきてやっとこうなれただな。

 

英語でいうと、僕は高校時代の英語の先生がほんと苦手だった。進学クラスのスパルタ先生みたいな人で、11文を生徒に日本語訳させていくのだけど、ちょっとズレていたら怒鳴るみたいな。大きな声っていうのがほとんどトラウマレベルで抑圧スイッチ入るところだったから、もう何もできない。単語テストもほんと嫌だった。

 

何が変わったかというと、正解不正解じゃなくて、理解に傾注できるところ。確かに最低限の単語が必要っていうのは日本語でも同じ。でも、自分を省みたら分かると思うけど、日常生活で常用している単語数って、2000くらいが限度では。あとは推測とスルーしながらなんとなく相手が伝達したいことは把握できる訳で。

 

日本語の語彙だって厳密に言えば、聞き取れてかつ意味が分かるもの、聞き取れるけど意味が分からないけど文脈で分かるから会話に支障ながないもの、聞き取れて意味も分かるけど文脈で考えたら整合していないから意味がわからない、フレーズ自体を読み取れない。みたいな細かな分類があるわけで。

 

日本語がややこしいって思うのは、ネイティブだからかなって思う。

ネイティブの人が教えてますっていうので英語ができるようになるのかっていうのもよくよく考えると疑問になる。例えば、これを読む人はだいたいネイティブな日本人だろうけど、外国の人に日本語を体系的に教えることができますかって問われて、できますって言えるかどうか。間違いを指摘するのは誰でもできるだろうけど。日本人同士でもよくやっている。

 

 

要は、時間をかけるっていうのが唯一の方法論なのだけど、この時間は物理的な時間ではない。物理的な絶対時間っていうのはきっとあるけど、物理的な時間をかけるっていうより、吸収率が高い状態をキープすることが大事。

 

僕は持続力が凄いらしいけど、これをするために必要なのは、義務にしないこと。ただやり続けるっていうのが最終型だけど、その前には単なる興味がある。だいたいは、何か対価が将来的にあるから努力するっていう感じで、基本的には馬に人参をぶらさげたら走るのと変わらない。

 

報酬がないと動かないくせになんだか高度ぶっているっていうのも結構な道化みたいに思えるけど、社会の基本ルールでさえそう設定されているからそういうものなのだろう。

 

 

というところで、僕はずっと対価がないときに人はどうするのかっていうのを観察していた。SNSでいう報酬は内面の顕示欲の充足で、それなりの対価関係がある。

 

 

でも、これは論理的に誤り。対価関係があるときでも対価にはならない部分があるから、観察対象が適切ではない。ただ、対価関係があるときの非言語の心遣いって、対価関係を取り去っても同じことをやるのかってなるときっとそうじゃないから、観察対象には含まれるけど、関係が全くない土壌とは前提が違うよなって思わなくない。

 

 

 

そうやっていくと視界が拡がる。

 

そういうことは普通にやっていたなっていう自分の良識の掘り返しでもある。

例えば僕がコンビニ店員だったとき、目まぐるしく来る客の中に固定客が居て、固定客には固定客の癖に合わせて動いていた。毎日行ってるコンビニの店員さんは、なんとなく気づいている感がある人も居るけど、だいたいは、抽象化したお客さんへの対応しかしない。

 

これは別に良いし、不満はないのだけど、観察力がない人には興味が沸かない。

 

観察力の定義は知らないけど、僕の中では自分の範疇の外に目を向けられることだとしている。観察っていう言葉自体がきっとそういう意味だったし。

 

 

とりあえず、おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セルフ・カウンセリング

 

メインの豚肉とマロニーと白菜の炒め煮が優しい。洗い物とか他の料理とかしながら全然手をかけていないのに。何か根本的な勘違いをしている気がしてきた。

 

 

さておき、でもないか。

 

どんどん自分のものさしが分裂してますます生きづらくなっている。けどこれって、周りがどうのっていうより、切り離して置いてきた自分の本音に逆襲されているだけかもしれない。みたいな夢を見た。女の子と部屋に入って、あぁここ大学時代の部屋だってパイプベットの下を覗いたら、都市伝説みたいに元恋人さんと目が合うみたいな。まぁデフォルメされていたし、そのあと巨大化としたり海に帰ったと思ったら戻ってきたりとしっちゃかめっちゃかだったから、それほど悲しいことではない。

 

まぁ、社会的に抑圧傾向気味だったところに私的に破裂するような事態が起こったから、なんだか歪になったのだとうなと。もともと私的な関係でも何考えているか分からない人だったみたいだけど、余計に変になったと思う。

 

仕事で、あなたはコミュニケーション苦手なのか、学生じゃないだからっていう接頭語で叱られた。確かに正論でしかないのだけど、それを言わなきゃならないのは知っていて、それを抑圧する何かがあってしんどくてしょうがなかった。だから、叱られたこと自体は構わないし、むしろ嬉しい部分もある。歪んでいる。

 

それで、コミュニケーション能力を持っていないのかなって思って調べたのだけど、ここには特に問題ないのかなって。解釈が多すぎて困ることはあるけど、受信能力は無駄に発達している。発信が著しく不発達なような気がするけど、自分がよく評価されることを抑圧していてなんだか歪む。

 

対個人で疎通する分にはなんの不具合も感じないのだけど、相手が社会的人になると何かおかしくなる。

 

ということで、社会的人間に恐怖を感じているのだろうなって思って、人間恐怖症で調べたら、対人恐怖症と社交恐怖症が出てきた。どっちもありありで、ここに根っこがありそう。僕が本当に嫌だったのは、接する相手個人に言動しているものが、属する集団に伝聞されるっていうこと。っていうフィードバックから個人は属する集団に伝播する存在だから、抑圧してしか接することができないっていう固定観念が生まれている。

 

あえて前の職場ではそういう風に伝播する存在をやってみていたのだろうっていう自己観察だけど、これって全然面白くない。対個人を集団の話のネタにするのはほんと嫌。嫌だって言ったところで、どちらが大事かと言えばきっと集団だろうし、それは壊したくもない。

 

伝聞すればするほど現象とか情報の価値は落ちていく。

 

 

そうそう、価値で言えば、自分に価値があろうがどうでも良いだろうっていうところを抑圧する、自分に価値があってはいけないっていう価値観がある。どっちが本音かと言われればどっちもそうなのだけど、じゃあ実際どうすればって瞬間の自分。安心が不安になって、少々の不安がある方が安定するっていうのがここにある。

 

 

なんだか時間もなさそうだからそろそろ収束。

 

生きづらさの開放まではもう少しかなっていう気がする。要は、自分が時空とか社会とか個人間の場所を取っていることを認めることと、刹那の自分にもっと任せること。ただ、本当にそうなのかって思っている自分が思考のほとんどを握っているのも確か。もうちょっと細かく書きたったけど。

 

 

最後。

 

今度の面接に英語系の質問が出てくるだろうと思ってTOEICの単語帳を買ってみたのだけど、なんとなくすらすら分かる。中高英語の文法の本も並列しているからっていうのもあるかもしれないけど、単語を日本語の一対一関係で変換するのではなくて、ニュアンスで把握する。高校の単語テストで使われた単語帳は一対一だったかどうかは忘れたけど、僕が英語に苦手意識を感じたのは、兵士っていう単語を推測で売人って書いて笑いものにされたこと。売人っていう単語の意味は分かっていなくてニュースで聞きかじっていただけだったけど、あぁ英語ってかっちり考えなきゃいけないのだなって抑圧した。数学に対する抑圧もあるけど、学校生活抑圧だらけ。解放されたはずの人が下を抑圧するのだから、世の中は抑圧を前提に回るしかない。

 

日本的に言えば節度か。

 

最後の最後

 

英語のニュースサイトを翻訳して世界の終末と人間の覚醒について語るブログをブックマークにしているのだけど(英語習得する目的の1つに原文でニュース見たいっていうのがある)、人類は善性をもともと持っているっていうのがあった。

 

7個くらいあったのだけど、それでも、属する集団を大事にするっていうのが限界らしい。

そりゃあ認識の限界を越えるけどさ。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

こんなもん

転職活動で、パソコンから送ったはずのメールが送られていなくて、デフォルトのメールソフトに不具合があるのではないかと思って、職場で使っているソフトを導入した。大昔の模型アニメみたいな名前のやつ。と、考えると、私的なメールもあまり送れていなかったのかもしれないし、変に無言で送っているのかもしれない。まぁどちらでも良いけど。その文言を送ろうした自分はもういないし、それでどういうことになっているのかは、機器の不具合っていうより、そういう巡り合わせということ。

 

どれだけ言葉を尽くしたとしてもそうそう真意が伝わることがないっていうのとあまり変わりがない。っていう観点から主体で見ると、無限の情報から何を拾うかっていうところしかない。

 

 

そもそも真意という存在も疑っている。

 

この話したっけ。

 

例えば、信念って言うならそれは分かる。自分の中で絶対に揺るがないと表現すること。

この辺りからもう疑問がある。変わらないものは絶対にないし、そう言えるのは拠り所がきっと自分ではないから。

 

 

って考えていくと、本音の瞬間性みたいなところに思い至る。

観察者としての視点から見ればそんなの相手を捉えにくくなるからやめてくれってことになるだろう。為政者の人格に一貫性を求めるとか、他人には厳しいみたいな感覚。

 

要は、他人は自分の混沌よりは整然と整理したいのかな。

ここには他人はどうでも良いっていう観念も含まれるのかもしれないけど。

 

自分が混沌した矛盾だっていうのはすべからく共通項だと思うのだけど、そうじゃないように見える人も多い。っていうのは、きっと、相手に表現するときには自分を決めなきゃいけないことが多いし、その決まった自分が自分であるっていうフィードバックがあるから。

 

 

決められた自分と決めた自分。

 

 

という感じで、混沌を当たり前にしたとしてもその人がその人である定義っていうことがよく分からなくなる。主体で見れば自分が自由に動くときと不自由であるときも自分だと認識しているし、客体で見れば、他人に対しても認識する為の根があるようで。

 

 

客体で一番わかりやすいのは、名前という記号。記号で特定された人は、何を矛盾しようがその記号で括られる。名前制度は良くできている。

 

 

 

結論としては、個人関係で見た時、何か相手を個別に特定できる非言語が存在しているのでは、っていう話。それは、永い年数を一緒に過ごしてきたっていうのもあるだろうし、何か個別な共時性があったり、他の要因もあったりするのかもしれない。

 

人を個別に見るっていうのは、相手の個性を尊重するとかではなくて、相手に対して個別的な自分でいるかどうか。例えば、一般的にはとかあの人はっていう他の視点を持ち出そうとしたらその時点で社会的な関係になる。

 

 

非言語とは、芯。

 

 

最後。

 

高尚なこと言っているようだけど、僕も結局居場所が欲しいのだろうなっていう感じはする。社会の椅子取りゲームとか媚びないと働けないとかどうしようもなく嫌だけど、興味を持たれることは嬉しい。

 

この駄文を読んで貰っていることも自信に繋げれられると良いのだろうけど、そういう感覚はどこを探っても見当たらない。死角というか、あえて見えなくしているのかは分からないけど。

 

ただ、どういう居場所が良いのかっていうのも分からない。

居場所っていうのも結局は信念と一緒で、自分が決めたらそれで良いのかね。

 

 

おしまい。