硯に向かいて

ただの垂れ流し

自分の中の他人

お寺や神社でお参りするとき、人って何を祈るのだろう。絵馬とかあるように、やっぱりお願いなのだろうか。神頼みって言葉もあるし。恋人さんは挨拶から入るらしい。確かにお願いって結構厚かましいものだし、そりゃあ神様も礼儀正しい方を優先したくなるだろう。

 

神様に人格があるかどうかという話だけど、脳はないから言語化とは意識という意味では人格はない。ただ、その場の波みたいなものはきっとある。パワースポットみたいなもの。その波がどういった影響を当人に及ぼすかは当人の意識というか態度による。神聖な場には神聖な空気がある。

 

僕はお願いも頼みもしない。こうするので見守ってくださいなっていう感じ。北野天満宮でも学問の収集率上げるからよろしくって唱えた。

 

人が生きる意図ってもちろん人それぞれ。一言で言えば幸せなのだろうけど、基本的には楽になりたいか快楽を追求するか。ってこれも漫画の話だ。僕はこの脳も含めた肉体があるうちにどこまで使えるかみたいなものを追求しているような気がする。たぶん他の人は漫然とやっているだけで身についたり上達したりするものが自分ではいちいち意識で修正していかないとできない。そういう意味ではスペックは低い。

 

という感じで、タイピングは次のステップへ。間違えた時点でやり直しにして、間違いが0になるまで、料理とかお風呂とか次の工程に進まない。ある程度早く打てる様になったけど、このまま早さを追求しても先はないからやり方を変えた。

 

ともあれ。

 

今日は影響の話。

この話何回も書いているような気もするけど、まぁ良いか。

 

影響とはなんぞやっていうと、当人の中にある他の人とか物事の影。

影響を受けた人みたいな質問は創作者に対してはよくあるけど、一般の人にはあまりなさそう。あんまり影響っていう観念がないのかな。

 

少し噛み砕いたら、育ちとかでも割と近い。

影響は行動に出る。育ってきた環境を反面教師にしたって意識でも影響としては同じことをしていたりする。一瞬セロリのBGMが流れた。好き嫌いは否めない。

 

そもそもなんでこんな事を考えたかというと、通勤中に、恋は思想だけど愛は行動だなってふと思ったのと、お風呂で読んでいた臨床心理学の本で、人から影響を受けない人が人に影響を与えられるはずがないっていうフレーズを見たから。

 

 

なんだか諸々考えているけど、言葉としてまとまるだろうか。

変な話、頭の中がずっと夢みたいなことになっている。アルコールは関係ない。むしろこの領域はそろそろこれ要らんだろうってことになりつつあるし。

 

自分の中にある他人の影。

 

今日は必殺春菊を作った。これは本の師匠が誰かから継承したもので、僕に継承された料理。ただレシピをなぞるなら影響にはならないけど、何かの非言語も継承している。

 

脈絡なく思い出したのが、父親との数少ない思い出の1つ。車に乗っているときに、あと3秒で信号が変わる、3,2,1,で本当に変わったのを見た幼少期、父親は魔法使いだと感じた幼少期。歩行の方の信号の方が先に変わるっていうのを知っていたとしても、タイミング合うように発信できるってことは、おそらくこれを子供に言ってみようって前準備があったはず、って思うと、やっぱりもっと話たかった。影響を受けられなくなっているのがかなしい。

 

親族関係で言うと、父親の母親であるお婆ちゃんが、僕の家族関係について苦言を呈していた記憶も出てきた。どういう状況だったか忘れたけど、もしかしたら二人で居るときだったのかもなって思ったり。お姉ちゃんはあぁだしお母さんもあぁだし、妹ちゃんはこうだしみたいな。存命だけ認知症になっているからもうまともな話はできない。アンテナがもっとまともだったらもう少し我が家を改変できたのかもしれないし、もっと話もできたのかもしれない。

 

記憶に残っている影は、自分への戒めみたいなものでいつも悲しめな感情とセットで想起される。過去は歴史としたい人、というか人類の気持ちも分からんでもない。人はただ生きているだけでは全く変化しないから。悲惨な事件も他人事にするけど、他人事にしていては、影響は思想の面しかない。

 

思想への影響っていうのは、行動に出ない当人の頭の中にしかないもの。

言葉は人によりけりで、コピペを多用する人なんかは思想と近い。

 

なんだか、もっと書きたかったことあるけど、指が追いつかないから、そろそろ収める。

 

 

最後。

 

おそらく人って影響の観念がないっていうより、他人からの環境を自分の功績としているのではなかろうか。影響は受けていないようで受けているけど無意識の領域だから現実化しても分らないっていうのが善解。もう一つ在りうる解釈はあるけど言わないでおく。

 

僕の場合は、自分の今の現実の行動とか思考があぁこれはあの人から承継したやつだなっていちいち感じる。かといってコピペしているわけでもない。その前にそれを選択した意志っていうものがあるし、どれだけ無いものにしようとしても自分は在る。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

継承

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大量に降っただろう雨の跡を見ながら出勤。アプリで新しい漫画を見つけた。絵柄的に古そうなのだけど、人類の神化をテーマにしたものでなんだか新しい。後で書くかも。帰りには月が見えた。遠くてあまり見えなかったけど、三日月よりもっと鋭い。

 

さて。

 

昨日のおかずが大量に残っていたし、洗濯と掃除をちょっとしたから、今日はメインだけ。

二日目のポテトサラダはなんだかチーズの味が強くなった。美味しい。居酒屋だと280円位はとれるかも。笑

 

メインは、今日頂いた伊藤ハムの焼豚でも良かったけど、使い切らずに冷凍していた鶏モモ肉と皮を消費しようと適当にうちにある食材と組み合わせたら、アジアンテイストになった。

 

 

レシピ。

 

大根を賽の目切りして、下茹で。その間に肉を解凍しつつ、ブロッコリーと茄子を切っておく。茄子は水に浸ける。鍋に鶏皮とオリーブオイルを熱して、食材を加えて油を回す。水とカットトマト缶(7割くらい)を入れて、コンソメ、カレーパウダー、無塩バター、ウスターソース、ケチャップ、牛乳、醤油をてきとーに加えてしばらく煮込むだけ。目分量だから再現性もないし、教えて完成するものでもないレシピとは言えない記述。

 

バターチキンカレーにご飯にかけなくても食べられるように薄くした感じの味。大根の味が若干和の味を出している。週末忘年会だから、小分けにした分を冷凍しといて、土曜日のご飯はチーズリゾットにしよう。あれ、洋風にも近いのか。

 

なんとか料理みたいなことでもなくなっているのか。

最近他人に食べてもらう機会がないからどう発展しているのかはよく分からないけど、どこの料理かっていうのは基本的に調味料で決まるわけで、今の日本ではほぼほぼの調味料は手に入るからなんとでもなりそう。国文化っていうよりもっともっと狭い風土だろうし。料理ほど細分化される領域はなかなかない。

 

自分の家の当たり前だと思っていたルールが他の家庭を知ることで当たり前ではないっていうのは、料理の領域にもあるけれど、これは可視化できる領域。たとえば我が家ではソースと言えばウスターソースで、コロッケとかとんかつにかけていたけど、中濃ソースだったりとんかつソースだったりする。目玉焼きには醤油だったり、塩だったりもそう。分かりやすい。

 

けども、料理の文化の本当は、不可視の調味料じゃなかろうか。醤油とかソースとかを掛ける前の下味の塩コショウの量だったり、どんな油で調味しているかだったり。変な話だけど、愛もきっとある。料理における愛って確かどこかで書いたはずだから、反復はしたくないけど、もう一回さらっと。

 

不可視は非言語で、解釈で、何を愛とするかということで要素としては色々ある。例えば、忙しくてもちゃんと自分にご飯を作る時間を確保してくれたこととか、自分の好き嫌いに配慮してくれることとか、体調に合わせてくれるとかが、食べる側が感じる愛。作る側からすると、この人の為に作ったとかそんなん。僕はこの領域にはまだ至っていないからあまり書けないけど。

 

 

食育って言われていて、何をしているのか全貌はわからないけど、食材に対する知識みたいな遠い話より、もっと近いところを見たほうが良いような。お金かけて良い食材を食べさせるみたいな英才教育っぽいものも大事かもしれないけど、この食材を食べられるように加工してくれたのは誰かっていう想像力。

 

想像力の欠如っていうのも月並みだけど、これの元凶はお金だと思う。だからこそ発展したっていうのはきっとあるけれど、なんだか変な感じ。金銭がないところのほうに価値を置いているのかっていうのも観察している限り微妙だし。お金は人を機械にしてしまうには良い手段だったんだろうけど。

 

 

仕事の話。

は、特にない。そろそろ雑談に交じろうかと思っているくらい。ミスはあるけど穏やか。

 

 

最後。

 

冒頭の漫画に戻ってきて。

種の限界っていう下りがあった。親が子を喰うっていうやつ。さて、現代に引き直すと、割と近いところにあるなって。喰うっていうのは古代だったら物理的だっただろうだけど、別に制度的でも法律的にでも良い。

 

最近できたルールで、次世代が生きやすくなるものってあったかな?

法改正でも、配偶者が亡くなった既得権者の伴侶を保護するものだし、ある意味旧世代が次世代を抑えつけている。子供のためっていうルールもあるけれど、突き詰めると子供を保護するのではなくて、育てる親を保護するものだし。

 

結果として完全な少子化になっているし、このままでは日本人っていう種は消滅するだろうなと思う。上層部には消滅しても良いっていう思想はきっとあるだろうな。

 

寿命が延びたことに対応できていない。

 

だから何だと言われたら、そういう風に見えるだけで、特に変われば良いとも思っていない。個人的に多数派にはあんまり興味ないから。

 

 

おしまい。

スクランブル

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ソラニンどころではない、もう栄養が次の世代を作る為に芽に移っているじゃがいもがたくさんあったから、消費するためにポテトサラダを作った。ポテトサラダ好きの一緒にご飯を食べる人が居るものだから、色んな居酒屋でポテトサラダを食べてきたから、そろそろ自分のも作ってみようかなと。

 

きゅうりとか玉ねぎとかウインナーとかはなかったら、食材はゆで卵とブロッコリーと人参とチーズ。調味料は、塩、胡椒、砂糖、コンソメ、酢、マヨネーズ。おそらく上品な感じはお酢が出しているんだと思う。自分の食べてもお酢が使われているっていうは分らない。

 

肉料理は、豚肉とキャベツとピーマンのトマト缶ウスターケチャップ牛乳炒め煮。

牛乳はちょっとしか入れていないから、まろやかになっているかは不明。ピーマンの苦味が良い感じ。

 

箸休めは、水菜の胡麻和え。時短枠だから、白だしとすりごまだけで味付けしている。

調子に乗って千切り大根加えたけど、これは昨日の弁当のおかずが残っていたからまだ食べていない。

 

今日は趣向を変えて、この料理たちの画像も張って見よう。使い回しだけど。

楽しんでいる感が見えると言われたのだけど、見る人によってはどんな非言語が見えるのだろう。

 

 

今日のテーマは楽しいで良いか。

 

 

ともあれ。

 

時代遅れでツムツムっていうアプリを始めたことは書いたはず。自分の反応の鈍さと指の太さに辟易する。面積が広いからどこが反応しているのかっていうのが把握できていない。のは良いとして。

 

母親もやっているみたいで、同じキャラで自分より高得点出して煽ってくるのが悔しい。

どの人がランキングで出るのかっていうのもよく分からん。ブロックして削除したはずの元恋人さんが届くまでどれくらいやらねばならんのだっていうくらいの桁違いのトップに居るのだけど、前の前の職場の人は出てこなかった。ここで出てくればもう一回くらい飲みに行けたのだけど。何システムだよ。

 

まぁここの話は、別にゲームの話じゃない。

 

僕は第一感で母親が煽ってきたと解釈して悔しくなった訳だけど、第二感としては、息子よ、始めたのか、私も同じキャラ持っとるよっていうアピールだろうなっていう解釈が出てきて、こっちの方が有力だと判断した。負けている悔しさは残るけど、この悔しさは楽しい悔しさ。

 

楽しい悔しさっていう観念がないよって言われそうだけど、それは語彙が混同していて、ねたみとかやっかみとか、自分がやろうともしてないことに対する羨望が交じっているからだと思われ。純粋な悔しさって結果はどうあれ当人の糧になるもの。割とエネルギー値高いからどう扱うかって難しいところだけど。

 

そうして、ふと思ったこと。

人と人の関係って、互いが勝手に解釈していることに他ならないなと。

 

例えばツムツムの例に戻すと、母親に煽って来やがってって感情をぶつけたとしても母親的にはそんなつもりは全く無いかもしれない。

 

逆に分かりにくいか。

 

要は、自分のこうしているつもりと、相手の自分への解釈の齟齬があってもどっちが正しいっていうことはないということ。セクハラとかいじめとかは相手がそう感じたらそうだっていうのがあるけど、これは被害者保護に寄った視点。

 

人が他人と繋がるには、お互いの中で当人像を二次コピーするしかない。もう少し言うと自己像すら二次だけど。

 

 

この文脈で、人って関係している人の生存を願う訳だけど、それは物理的に生きていてほしいっていうよりも、解釈が更新されることが楽しいからではなかろうか。

 

もちろん知らんけど。

 

最後。

 

楽しいっていう観念はきっとズレている。

思い通りになるとか、何か心地よい状況みたいなものは別に面白くない。

 

一言で言うなら、自分の更新可能性が在る限りは楽しい。

絶賛上限解放中だかフィーバーしている。他人への解釈も決めつけがなくなってきた。

 

人間が生きるっていうのは、可能性を拡げること。

広がらないなら、それは。

 

 

結論。

 

生命を楽しんでいる。

 

 

おしまい。

外の外

 

 

月が綺麗だという情報があったから、帰り道は空を見上げてみたのだけど見つからなかった。都会は空が狭い。便利への対価だから文句をいう筋合いでもないけれど、無機質なものに囲まれると無機質な気分になる。

 

 

さておき。

 

色覚が刺激されたからだろう、弁当はなかなか鮮やかになった。ブロッコーリーと人参の胡麻和え。ごまは少なくして、カレー粉も少し。彩りがでるように。目玉焼きに塩コショウ。茄子とキャベツの醤油味噌砂糖オイスター炒め煮。緑、赤、白、黄色、茶色、紫。先週末の茶色系ばかりと比べると雲泥。色も料理の一種だし、この辺りも意識していこう。

 

色覚も味覚と同じように鍛えられるものなのかなって、そりゃあそうか。五感は須らく意識して積めば応えるもの。まぁこれは僕の肉体という器の話だから他の器のことは分らないけど、速読とかソムリエとかあるし、だいたいは一般化して良いはず。てっぺんの方までいけば持ち合わせたセンスの領域になるだろうけど、そんなものは持ち合わせていないことは知っている。

 

そういえば、僕の三十年後は藤田嗣治みたいな顔になると顔の半専門家に言われた。自分でも多少は似ていると思う。でも、このネタ誰に通じるのだろう。画家としての知名度が分らない。日本の小説家で言うこともできないし。というのは、色覚は万国共通だけど、文字は言語圏に依るから。個人的には、好みで括ることができない普遍性をたたえていると感じたのだけど、どうだろう。

 

小説だって、最終的には普遍性だと思う。

栄養源は普遍性。そうして、完全な普遍性と、その作者の普遍性に細分化される。読んでいて楽しいのは普遍性を感じるもの。軸とかポリシーとも言い換えできそうだけど、文豪っていう言葉があった時代の文士の小説はだいたい美味しい。神話とかもそうだけど、またちょっと違う普遍性。

 

僕には普遍性はあるだろうか。

 

最後らへん。

 

日記的日記。

なんだか調子は良さげ。顔色は東洋医学でもあるけど、昨日恋人さんにドス黒さがなくなったと言われた。体感としては、今日の自分の声は結構スムーズに出ていた。外から観察したらあまり変わらないのだろうけど、張りがある気がした。

 

これの原因は色々考えられるけど、一番は平安神宮さんが諸々流してくれたのだろうなと思っている。

 

因果関係って人が大好きな観念。

因果関係っていう言葉自体は意識されないけど、何かのせいで自分がこうなったとかこうであるとか、何かのおかげでこういう風に向上したとかって具体化すると分かるはず。

 

僕の中では、そんなことはどうでも良い。

とりあえず理由付けしているけど、人の本質は因果関係の外にある。

って開き直ってくると、世界が変わってきたというだけ。

 

感謝は誰の為にするかっていうのも、別に相手の為にするのではない。

感謝の意っていうのを素直に表現できることが自分の中で精神衛生上良いから。

 

在り難いものって自分が感じたらありがとうで良いし、当たり前だと思ったら、別に社交辞令的に言ったところであまり効果はない。ありがたがられたい人には効果はあるだろうけど、そんな人ろくな人物ではなかろう。

 

そろそろアルコール入れて書かなくても良くなるかもしれないなって予感もある。

健康のためっていうよりは、別に積極的に死に向かう必要もないし、素面でも酔ったときとあまり変わらなくなってきつつあるなという方向性。栓が外れてきたのかねぇ。

 

やべ。

寝よう。

 

 

おしまい。

時代の外

 

今日は本当に時間がないのだけど毎日やっておかないと指が鈍る。自分の不器用さは自分が一番知っているから、ちゃんと積む必要がある。あとは、渦中のうちに記しておきたい日記的日記もあるし。

 

さておき。

 

感動と恐怖は少し似ている。共通項は、未知への畏れが根にあること。未知はベクトルによって好奇心になるからあまり意識されないけど、自分の感覚が否応なく引き出されるっているのはなかなか怖いことだと思う。感動は感情が動くっていう意味もあるだろうけど、メインは知覚が動くこと。当たり前と認識していたことが当たり前ではなくなると言っても良い。

 

藤田嗣治展を見てきた。

一言で凄い。鳥肌が立ちっぱなしだった。寒さにも似ている。

 

何が凄いって、言語はもちろん最新技術でも再現できないところ。図録とかポストカードでは現実の3割も再現できていないのではなかろうか。二次的にコピペしてしまうと二次元でしかないのだけど、原画は三次元になる。絵の具の厚みとか質感。あとは、人の視覚で認識できるように色付けされているから、機械で写すと拾えない部分がある。これだけ写す技術が発達したといっても人の目で見るようには表せないから、現物の生物を見ることでしてか伝わらない。単に鮮やかであるだけとも違う、現実じゃないとは分かってみているのに現実に見えるという、視覚を騙せる技術。

 

高校の時、世界史とかで著名な作家の宗教画を教科書で見る機会はあったけど全然響かなくて、僕には芸術は分らないのだなぁって思っていたけど、そうではなかった。これらも生物見たらぜんぜん違うはず。

 

ルーブルとかも行ってみたいなぁ。

 

何かの本のタイトルだったかで、一流の人は芸術を鑑賞しているっていうのがあったけど、なんとなく分かった。一流の芸術作品って構図とか色彩はもちろんだけど、本質は、普遍性を含んでいることで、この普遍性は、直に接しないと響かないところ。

後天的にセンスをなんとかするには唯一の道なのでは。

 

これは書物でも通じるところで、古典として現在にまで残っているものには、なんらかの普遍性がある。と思う。

 

という感じで、非言語情報がめちゃくちゃ収集できてかなり精神充電できた。

 

 

非言語といえば、寺社仏閣も大好き。

平安神宮行ってきた。これも言語表現すると、鳥居をくぐれば異次元で空気が清廉だった、みたいな感じ。空気が全然違う。純粋な自然とは違った意味で自然。超自然で良いのかな。

 

北野天満宮も行ってきたけど、また空気が違う。

個人的には菅原道真さんとしては知ったこっちゃないことだと思うけど、願いが結構ごりごりしたものだというのあると思われる。

 

さて、来年初詣に行く橿原神宮はどんな空気だろう。

神武天皇を祀っているということだから、かなり空気はぴりっとしていると思われる。

 

 

やべ、寝ないと。

 

最後。

 

言語が好きだっていうことには、非言語がセットになっていると思う。

非言語の領域は無限なのだけど、要は、言葉で括ることが不自由そのものだって把握して言葉を扱うこと。

 

僕は別に生活が向上したって感覚はないけれど、感覚は開放されてきているなと感じている。去年は感覚が閉じていた中で出雲大社とか伊勢神宮行ってあまり分からなくてもったいなかったなって。

 

人で見ると、非言語領域っていうのは、当人の語彙とセットだと思う。語彙が少ない人には非言語領域もそんなに分類できない。混沌というか宇宙というか。

 

楽しく生きよう。

 

おしまい。

生存欲求

 

寒いなぁ。とはいえ、そこまでもない。

寒く感じるのは、落差の体感。そのうち慣れる。所詮人間の五感では、相対的にしか外界を把握できない。

 

気候についてふと思ったのだけど、例えば大学受験とか高校野球とか、住んでいる地域ですでに平等に競争する前提ではないような。まぁ最終的にはどこまで揃えるかの問題で、突き詰めるとキリがないからこんなものなのかな。

 

 

 

ご飯の話。食欲がなかなか凄い。胃がもたれることがなくなった。アルコールは摂取しているから腸の方は大変だけど、よく食べる。

 

昨日は割引のトンカツをそのままだと美味しくないから、玉ねぎと白だし卵とじ。少し残して今日の朝にカツ丼にした。アボカドとハマチのわさび醤油ごま海苔。まぁ細かい料理の話は良い。

 

太るか太らないかって、摂取カロリーと消費カロリーの相関でしかないらしい。

分かりやすい真理っぽいけど、なんだかおかしい。何かもっと違うルールがあるような気がする。見かけの消費カロリーがやたらとすくない僕が全く太らない説明にもならないし。

 

物理的に場所を取るかどうか。

変な話だけど、自分と外界の境界を形作るのが肉体だから、肉体は精神世界を反映する。しっかり摂取カロリーが肉体に反映されるなら大丈夫。僕のは摂取カロリーが異次元に消えている感がある。太ると身体が重くなるからそうならない。筋肉量は増えているかも。片足スクワットやったらできたし。必要なものしか要らない。

 

生物が存在する意味というか現象ってなんだろうって考えると、まずは物理的には重ならないっていうところだと思う。何かがそこに在れば、後から誰かがそこに行こうとしても先占されているから無理。あまりそういうこと考えている人居ないのだろうなって、満員電車で思う。

 

だいたいフォルムは精神世界を反映していると思っている。

 

綺麗なのはそれなりの何かの現実化があるだろうし、身動きが緩慢になっても世界に安心しているのかもしれないし。

 

 

カロリーからのエネルギーの話をしとこうか。

どれが一番有用かっていうと、精神だと思う。電気とかガスとかが現実ではあるけれど、それを使おうとした誰かが居たからこうなっている。誰かの精神、つまり、これを現実化しようっていう欲求。

 

ビルとか電車とかだって、おそらく日常で使うとか見るとかとしか思わないだろうけど、誰かの精神世界が現実化したものって考えると趣が変わる。

 

割とまともに生きている人を見ていると、どうあってもまともに見えないなぁという感想。

自分がまともではないからっていうのに尽きる。

 

フランスで革命が起こりそうみたいなニュースもあるみたいだけど、集団行動が起こるときって、一種の陶酔がある。陶酔っていうのは自他の境界線が曖昧になって、高揚すること。

アルコールとか麻薬とかとあんまり変わらない。音楽もそういう性質はきっとある。

 

革命はちょっと違うけど、こういうのは結局個人で居ることが寂しいっていうのが原動力だと思う。なぜ寂しいかっていうと、個人っていう観念がそもそも独立したものではないから。

 

最後かなぁ。

 

もう関わっていないけど、生きていたら良いなぁって思える人は居るだろうか。

僕には居る。ツムツムをたまたまインストールしたら居た。向こうもブロックしているはずだし、僕もブロックした後削除したはずなのだけど、なんで出てきているのか。基準がよく分からない。

 

厳密に人と人のつながりを考えていくと、相手が物理的に生きているかどうかは問題ではないって所に至る。なんでかって、自己把握も他人像も観念でしかなくて本質には届かないから。

 

もう一つ加えると、こんな苦しい生活からドロップアウトして、偏在の波になる方が楽だし。

 

僕が人間関係の構築を億劫とするのは、心配事を増やしたくないっていう所がある。

義務教育で関わった人とか職場とか、ちゃんと存在しているだろうかって本気で気になる。

 

別に積極的に関わる気はないけど、大丈夫かな、何しているんだろうって。

そういう対象がこれ以上増えるのは困る。

 

あの人だけが自分の物理を紐付けした。

ここでいう物理は、肉体的痛みとか感情の反射とかではない。夢と現実の差は濃度の違いでしかないっていうのとよく似ている。

何を現実と感じるかは人それぞれ。

 

であれば、新規の人間は厳選していくしかない。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

後編

 

冬は良い。剥き出しになる。日本の四季は東北以北にならない限りあまり重篤ではないけれど、生まれた季節と性格の相関性っていうのはきっとある。占いっていうより、生まれでた瞬間の世界はこういうものなのだっていう刷り込み?

 

春生まれだから、季節的に近い人とばかり関わりがあるけど、冬に焦がれる気分は

ある。

 

冬といえばback numberになっている。

泣きそうになる。これは空前絶後で自分が対外的に感情的だった世界が反応するから。なかなか無防備だった時代。今でも他人の前で泣くことは別に恥じだとは思わないけど、泣けるような状況がない。一人だと漫画読んで泣いたりするけど。

 

一人だと本当に感情的。

 

ところで、人が環境に無防備だっていう話。

他の動物と比べてこんなに毛がないのはおかしくないだろうか。毛深さの誤差はあるけど、毛深い人でも寒さに耐えられるくらいの毛量はないし。進化論を自説として採り入れている人はどういう説明ができるのだろう。

 

衣服が発達したから体毛がなくなったっていうのはありそうだけど、体毛も在ったほうが

暖かくはなかろうか。

 

人間も自然だっていうけど、体毛に関しては明らかに何か人工臭を感じる。

他の動物と比べて滑らか過ぎるし、脆弱過ぎる。

個人的には生物外の何かのDNAの抑制だと思っているのだけど、あまり言わないでおく。

 

もう少し現実っぽい話をしとこうか。

って言ってもあまり現実生きてないなって感じなのだけど。

 

現実ってなんでしょう。

と問われて、言語化できる人はいくばくか。

 

だいたいの人は仮初の現実の一生を過ごす。

精神を肉体の範疇でしか捉えらない層。

 

精神と肉体はつながっているに違いないってほんとにそうなのか。

 

 

本当に響いた事象って、精神はいくらでも時空を超える。

喜怒哀楽でしか言語化できないから、外に表すると希釈化されるけど僕の中ではすぐにその瞬間に立ち戻る。

 

そう考えると、僕に人間関係もっと構築しろっていう人がそこまでの関係性を構築しているのかっていうのは疑問。

 

関係する人を増やしたらその関係のなかでの自分は肯定されるのだろうけど、それでは僕が存在していいことにはならない。

 

卑屈じゃない。

 

歯痛なんてどうでも良いくらいに常々痛い。

ことに無感覚。

 

おしまい。