硯に向かいて

ただの垂れ流し

言葉と感情の関係

 

 

 

 

水滸伝で暗殺に対する考え方が2通り出てきた。人の生死は運で、暗殺は運の下向きを後押しするもの。もしくは古い友人が訪ねてくるもの。なんだかノルウェイの森と通じるものがある。

 

生死の観念がどこにあるのかというのも、哲学的ないし宗教的な観念として凄く大事なことだと思う。どう死ぬかということが自己決定の範疇だと認める国も出てきているし。尊厳死。ただ、これも難しいところで、認める基準をどこに設定するかとか、本人の認知がどうなのかとか諸々。自殺を法律で認めるということは、刑法も変化するのではとは思うのだけど、どうなのだろう。他の社会は知らないけど、現代日本社会では、自殺に関与することは、嘱託殺人だったり、自殺幇助だったりで、殺人罪よりは軽いけど刑罰が科されることになっている。

 

たぶん、然るべき医療機関によるべきという落としどころなのだろうけど、死を人が選択して良いものなのかっていうのはきっと倫理の問題。

 

というより、感情論なのかな。近しい人が死に向かうとき、当人の感情としては自分が相手の生存を保てなかったっていう負い目を罪悪感とすると思うけど、この罪悪感が誰のものかっていうのは分かり切っている。これを一般化して、死にたがっている人に対してあなたが死んだら悲しむ人がいるよって説教してしまえることって、かなりやばい。

 

僕もこの意味での負い目は1人だけに負っているのだけど、当時の自分ができるのにしなかったことではない。未来から遡れたらなんとかできたかもというだけ。こう思い返せるということは、僕が父親を好きだったのだろうなと結論に至る。

 

ともあれ。

 

ここの文脈での本題は、人の死の可能性は生きている限り拭えないものであって、例えば僕が近いうちに死んだとして、関係している人に何が残るのかという思考実験をしていた。

 

現実と繋げてここを知っている人はほとんどいないけど、ここを読み返して僕を見つけようとする人は居るかもしれない。でも、僕はここには居ません。まぁ居ないことを前提として思い出に浸るために読み返すなら在りかなとは思う。

 

精神的ストレスで体を壊したと評価してくれても良いし、友人なんかはやっぱそうなったかって思ってくれるかもしれないし。

 

人の「生」って生存確認できれば良いって捉えている人が多いのではなかろうかという疑義。母親なんかがそうなのだけど、どこかで生存しているより、自分が感知できる生存の方が大事みたい。でもこれって、対象の存在そのものを尊重している訳ではなくてあくまで母親が観測できていれば生存だという。これに囚われる必要はないのでは、って思う。

 

確かに、当たり前が途切れると不安になる感覚は分かる。でも、この当たり前って共同生活していればともかく、相手が自分に時間を意識的にかけているから生まれるものであって、当たり前をこの先にも提供しろよって要求するのは相手の意思を蔑ろにしている気がする。まぁ5年くらい前の自分なら当然の感覚だったから、これ自体が悪いとも言えないけど。

 

要は、命って大事だって言うけれど、ここで言われている命って観測する人が決めた命なのではっていう話。

 

ところで、言葉についての本でエーリッヒフロムさんが出てきてびっくりした。名著シリーズで愛についての本は読みたいと思っていたけど、まだ読めていない人。確か愛されるための技術みたいなことだったような。

 

フロムさん曰く、感情を表現する言葉が限られているとき、その言葉に割り振られた感情しか認識できないとか。英語圏の話で、愛はloveという言葉しかないけど、兄弟愛とか家族愛とか細分化した愛は捉えられないとのこと。

 

これって、確かに真理を突いていると思う。自分は自分を言葉で十分表現できているとか、言葉でさえ表現すれば他人に自分が伝わると認識している人は多い。言葉を遣うのではなくて、言葉で自分を規定しまうということ。言葉から外れてしまった自分は当人の中でさえ自分の範疇に含まれなくなる。

 

僕はこの齟齬がずっと気になって居たから研究している。だから、言葉の意味から外れたものとか、素朴な言葉の語用が一般的とは違うのにも気づいた。

 

例えば「好き」。

 

これって一般的には人に使うと特別だっていう意味が出てくる。確かに特別だけど、僕の中では物理的な意味では、ずれがあって、共通語彙としては使えない。僕は、生活に含められるっていう意味で使用している。生活は記憶とか人格も含めて良いけど、要は、その人の居場所が自分の頭の中に残るということ。だから、浮気された元恋人さんも好きで良い。許すとか許さないじゃなくて、当時の自分を肯定するに近い。

 

いまとか未来に引き直すと、現実的な関係とは離れるものだから、別の言葉を当てないといけないかなって思う。

 

 

この方向で考えていこう。

 

 

では、皆さん良い夢を。

 

おやすみなさい。

 

 

実在

こんばんは。

 

晩御飯のメインは豚こまとピーマンと椎茸の炒めもの。ピーマンは実家の実家の叔父さんが作っているもので、ちょうど消毒をしたところだったらしい。別に人体に悪いものではないらしいけど、良く洗えとのこと。確かに形といい色といい市販品っぽい。まぁ清潔そうなものを求めたのは市場だし、商品価値があるものを送ってくれたということ。まぁやや大きすぎる気もするけど。

 

清潔そうで言えば、水で洗えば大丈夫っていう感覚も危ういような気がしないでもない。水が清浄っていうのもどうなのだろう。水によるような。湯舟につかると最近の数はむしろ増えるというし。まぁ自分由来のものが取り除かれるというのは気分が良いのも分かるから、要は気分と科学的結果をどこまで調整するかという話。

 

さておき。

 

昨日の続きというかなんというか。

なかなか本質的な話だと思う。言語化できないものを言葉で表現する試みだから、うまく書けるかは分からないけど。

 

まず、昨日原始宗教で思いついた仮説なのだけど、キリストも釈尊ムハンマドも同じことに気付いていたというもの。布教対象である人達が住んでいた文化が違うから教化の内容が変わって分化したのでは。新約聖書阿含経もキリストないし釈尊を神聖化して後から編纂されたものらしいけど、基本的には問答形式みたい。ここで思うのは、誰に対しても同じことを言うっていうのは普遍性ではなく、単なる固定化ではないかっていうこと。普遍性自体はこれって言葉で定義できるものではなくて、言葉として形になるものは一見矛盾もありきで変化するものでは。

 

だから、かなり乱暴に言ってしまうと、キリスト教ももともとは別に神様を謳う必然はなかったのではなかろうか。そういう文化だったから神様を選んで人が信じるものを設定してみただけで。もともと土着の信仰があっただろうし、それだったらそれでええやみたいな。仏教だと、神様みたいな話はあまりないけど、これはこれでおそらく土着に乗っかっているような。カースト制度時代もあるし。バラモン、クシャトリア、スードラ、あとなんだっけ?

イスラム教全然読んだことないから想像だけど、偶像崇拝禁止とか戒律厳しいっていうのも、教祖が提示したときの文化がそうだったのでは。

 

要は、そもそも言語化できない普遍性を問題としているのだから、その名前をどう付けるのかっていうのは、より伝わるように設定すればいいということ。

 

かなり政治に悪用されている感はあるけど、政治学的には使えるものは使わないといけないだからしょうがない。

 

日本は無神論者が多いっていうのは、この文脈から考えると外から教化する必要がないほどに内側に信仰があったのではと。今は分からないけど。

 

ということで、問答形式の教典がバイブルになるっていうことは、人は正解を求めたがるっていう性質があるのだろうなと。正解がない状態は不安であって、不安を不安のままにしておけない。

 

仏教だと煩悩と認定されそうだけど、この不安をどう扱うかが悟りの境地に至れるかどうかのような。仏教の本質は、個人が孤独だということに気付くなのだろうなって今日読んでいて思った。仏法僧の僧ってもともとは仲間とか集団を意味するらしい。転じて、修行仲間の集まりみたいになっているみたいだけど。

 

 

そうして、哲学のヘーゲルさん。

 

難解過ぎてあまり読みほぐせていないのだけど、今日読んだところはやたらとしっくりきた。「いまここ」の話。

 

「いま」は夜だっていう表現をしたとして、「夜」は明日の朝になったらもはや過去のものであって、「夜」は「いま」を表現するための媒介でしかないという命題。「いま」は持続するものだけど、媒介物によってしか表現できない。「ここ」も然り。

 

つまり、「いま」も「ここ」も存在はしているけど、言語にしてしまうと表現しきれないということ。僕が人と関係していて思う齟齬を表現してくれていた。

 

これを進めていくと、「自分」も然りじゃないかと飛躍する。「自分」は実在するけど、表現するためには、自分はこういう経験をした、自分の感情はこうだっていう媒介物を自分としてしまう。媒介物自体ももちろん重要なことだけど、媒介に囚われない自分っていうのが、戻ってきて悟りなのではって思わなくない。

 

 

同じ文脈なのか別文脈なのか分からないけど、僕はおそらく昔の知り合いに再会して会話したら、きっと変わってないなって言われると思う。常に変化をしなければ生きている価値がないくらいの価値観なのになぜこうなるのかっていうと、きっと外付けの価値観を取っ払っていくと、もともと自分が持っているものに行きつくということなのだろうなと。外付けのものさしでアップデートしたことは別に変化じゃなくて単なる順応。

 

順応自体ももちろん大事だと思うけど、順応したものさしを個人のものにするって、どうしてもずれが生じるような。このズレが生きづらさなのではとか。って基本的に毎日生きづらいと思っている僕が言うのはアレだけど。

 

そうそう、宗教って得体が知れないっていう感覚を持っている人が多いけど、外に正解

を求めるっていう意味ではみんな得体が知れない意味の宗教はしていると思う。

 

自分だけに依って立つのが宗教上の悟りだと思うけど、別にこの寂しさを実感する必要もないというのが今の暫定的結論。どうしようもない人だけが至れば良いのではと。

 

 

おしまい。

 

皆さん良い夢見れますように。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

大事なもの

今日の夢もなかなかぞっとした。あれ、ぞっとしないだっけ?

 

家族で車に乗っているのシーン。助手席に乗っているのに、ハンドル操作だけ僕がやるというよくわからなさ。まぁ車の夢は思い返すとよく見ているような気がする。だいたい事故しているけど。事故も人身ではなくて、例えば海岸線でガードレールを突き破って海に落ちる浮遊感を感じるやつ。その後沈みつつある車から脱出するもある。なんだろうね。ペーパードライバーなのに。

 

その後がなかなか。重力がどうなっているのか分からない世界。斜面になっている田んぼみたいな泥沼を登っていくシーン。田植えは実体験であるから、感触が生生しかった。登場動物にウミヘビみたいなやつとかは流石は夢だけど。そこで僕は効率的な足の上げ方を意識していた。泥の抵抗、坂の抵抗。

 

それで、その斜面を登った先に何があるかというと、大きな惑星があった。月の衛星写真みたいなむき出しの地面で、サイズは自分が居る場所より遥かに大きい。このサイズ感の情報をみた実体験の記憶がない。ついでに、ここまで繊細な画像が自分の中にあるというのも。一番近い距離の部分に大きな目があってぎょろぎょろと動いていた。その目が大きな声で笑うの。かっかっかって。その瞬間に目が覚める。

 

目が覚めた現実では外でカラスが同じように鳴いていた。カラスの鳴き声は笑い声にも捉えられるのねって。

 

まどろみで知覚するものの無駄なリアリティ。多分心霊現象と繋げてしまう人もいると思うけど、布団としわが自動で人の顔に認識されたりする。まぁ一般的ではないだろうけど。

 

 

ともあれ。

 

ご飯は省略するか。苦手な叔父さんの話があったけど、まぁ良いや。

 

 

本の話が本題だけど、その前に仕事の話。

 

なにやら、人との会話の楽しさに目覚めている。僕は自分を言葉で分かってもらおうっていう観念がほぼないから、会話っていうのは語られるものだっていうのがデフォルトだった。

 

この職場だと、むしろ自分が言語数を増やして相手に分かってもらわないといけない。こういうコールセンターもなかなかないと思うけど、相手に届いて納得されたときって声の表情が変わるの。このばちっとハマった瞬間が好き。自分が良かったじゃなくて相手が良かったっていう意味で。こういう自分の実感を分析すると、教職もありだったのだろうなって思う。あと、自分が納得していないことは人に上手く説明できないっていうのも面白い。その部分に対してピンポイントで詰められる。

 

ここでの結論は、人って面白いなということ。ただ、僕は自分を言葉で説明できるとはおもっていないという齟齬。というか、人の中身は言葉では叙述できないだろうって思っているというか。だから、なんの対価がないところにおける言葉の価値がおそらく一般的なところからだいぶズレる。

 

 

やっと本題というか本の話。

 

佛教の続きとか、歴史とか政治とか。

 

世の中に政治が必要なのは、個々人の原初的な衝動は共同生活にそぐわないから、うまいこと調整する指標が必要だということらしい。確かに一般的な人はやりたくないことでやらなくても良いならやらないと思う。それをやらないといけないことだとして円滑に動かすのが政治。政治学入門、薄いけど面白い。

 

歴史は、中世の人にとって夜はどんな意味を持っていたのだろうっていうコラム的なフレーズが印象的だった。この時代で犯罪として一番警鐘されていたのは夜打ちというものらしい。今や夜って開発済みの領域だけど、照明もない、防犯もない時代の夜への畏れって、子供時代に暗がりが怖かったっていうのが一生続くことではなかろうかって想像するとなかなか響くものがある。

 

 

そうして、仏教。

 

仏法僧の法の部分を読んだ。法には法律とか倫理感みたいなものが含まれるけど、根本は理法っていって、人が人を保つ法ということらしい。例示として、人は社会の中で色んな役割があって、役割ごとに求められる道があるということだった。家族としてとか夫としてとか妻とか姉とか諸々。

 

ただ、これって、この当時はそういうものだったという話であって、ジェンダーロールとかではない。ここを切り取って継承したのが儒教なのかなって勝手に思いついた。

 

仏教に流れている思想が無常であることを前提とすると、役割としての理想的な姿という話ではなくて、役割に当人が立った時にその人個人がこの役割で何ができるかを追求しなさいっていう話だと思う。だから、この役割の人はこうあるべきみたいに役割から外の人が語るのは全然違う。

 

現代に引き直すと、自分が役割を取っ払われたときに自分を保てる法とはなんぞやってことだと思う。規定された自分じゃなくて規定した自分がどうあるか。この時に性別とか年代とかに囚われているなら、まだまだ修行が足りないっていうことになりそうな。

 

ここからは仏教の話ではなくて、個人的見解だけど、役割とか属性で人を括るっていうこと自体は、思考とか警戒とか言動の省エネとして合理性があると思っていて。身内は個別に考えられたとしても身内の外を個別に捉えるって、物理的に厳しいのは分かる。この文脈で自分を捉えて、外に向かうと自分の属性とか役割とかに偏重した世界になるのだろうなと思うけど、これを間違っているとも言えない。皆きっと仲間を外に求めるのだろうし。

 

現在日本には原始仏教が処方箋になるのかもと思う今日この頃。

 

 

 

おやすみなさい。

 

普遍的なみ

通勤中雀がなにかを突いているのを見かけた。良く見ると小さなカナブンだった。雀のくちばしで甲虫を貫けるのかしら。グロテスクなのかね。実家だとダンゴムシなんて可愛いもので、百足、ゲジゲジ、カナブンのサイズも鮮やかさも比ではないし、スズメバチは顔が付いているやつをよく見かけていた。後ろのほうはクワガタとかカブトムシを採取している時が主だけど。幼少期顔が付いてないスズメバチには刺されたことあるけれど、3日くらい熱出して寝込んだ。あれは首だったからなのか、末端だったらもう少しマシだったのかは知らない。

 

マムシとかヤマカガシとかの毒蛇も居たし、この長い長い下り坂を自転車に乗ってー、暴走していたし、生存可能性で言えばはるかに低かったのに良く生きていたものだ。

 

いや、生存可能性で言えば、都会の方がはるかに低いのか。良く分からないところ。車が突っ込んできたり電車が脱線したりそこに地震が複合されたりっていう可能性だったら、熊が居ない田舎で毒蛇とか蜂に刺される可能性の方が低いか。人口密度が高くなればなるほど異分子という犯罪者の比率も増えるだろうし。

 

 

ともあれ。

 

今日は、かなり嫌な夢を見た。逃げても逃げても纏わりつく同性からの粘着的好意。アレは結構トラウマレベルだったのかなぁ、と。走って逃げた先に居る。捕まったらどうしようもないのは分かっている。好意なのに。最終的にはタクシーに飛び込んで逃げたシーンで終わった。

 

僕の深層心理、どれだけ怖がっているのだろうという感じ。でも、他人を制限するものって、どういう方向性でも「意」のような気がする。しかし、もう1つでもを重ねると、「意」がない相手を変えようとは思わない訳で。変えるは変わると表裏。

 

物好きな人が多い。

じゃなくて。

 

さておき。

 

本の話。

 

職場の近くにあるブックオフに寄ってきた。水滸伝の続きは確定で、翻訳洋書枠を何にしようかと。本当はプルーストの長々したのが良かったのだけどなかったから、次点のドストエフスキーさん。光文社のカラマーゾフの兄弟を読んでいるのだけど、序文読んでいてくすくすしてしまった。翻訳者の力量なのか、原作の普遍性なのかは分からないけど、脳内心象風景は捗る。これって逆輸入的に村上さんの文章に慣れているからかもなという気がする。

 

ここで、仏教を前提とした音素学が収集された。本当はそこの参考書籍を読みたかったなのだけど、ブックオフになかったから、我が家にあるごりごりの仏教学の本にした。仏教とはよりも前の、仏教の成り立ちからの本。佛陀の佛の語源は、覚るっていう動詞の過去分詞なのだとか、ブッタっていう呼称は釈尊以前では色んな覚っている人に使われたとか。

 

ところで、音素学の先生の講義メモに、覚りには知識が邪魔だって言ったらしい。知識があると真実は見えないって。確かにそうだと思う。僕は本をがつがつ読んでいるけど、これって別に知識に偏重している訳ではない。ここでいう知識ってきっと、それ以上吟味しなくて良い結果で、なおかつ自分が他人に説明するときに、これはこういうものだって押し付けられるものだと読んだ。僕は結果としての知識に意味を置いていない。知識に辿りつくプロセスの方しか見ていない。知識というか叡智みたいな結果でそういうものだって言える人は、これが重みになる。僕はその重みを外すために本を読んでいる。

 

 

あと、音素と言語学は通じているなって思って嬉しくなったのが、「言葉といみ」を読んでいて出てきたフレーズ。

 

単語の記号の積み重ねに意味はなくて、「世界のうたいかた」に意味がある。

 

たぶん、悟りっていうのもここに繋がっていて、そういう人が綴る言葉には普遍性があるっていうことだと思う。でも、覚りにも個体差があって、響く何かっていうのはそれぞれで良いっていうのがほんとの悟りだと思われ。

 

文章は左脳を揺らす音楽。

 

僕の文章で揺れる人は物好き過ぎるけど。

 

 

本当は、この先に俗っぽいことを書くつもりだったけど、良い気分を害したくないのでやめとこう。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

威を借りれなくなったとき

世界の終わりとハードボイルドワンダーランドも読み終わった。これもノルウェイの森の対比で考えると面白い点がある。生死の概念が生生しかったノルウェイの森からすると、抽象的になった。あと、ノルウェイの森では、死の側の直子が自分のことを覚えていてねって言うのだけど主人公は生きている限りどんどん忘れていく。ハードボイルドワンダーランドだと、厳密には死ではないけど限りなくそれに近いところに向かう主人公に対して、ピンクの女の子が私の中であなたは永遠に残るみたいなことを言う。ハードボイルドワンダーランドで良いのは、自分が終わるときに祝福を与えていくところ。理想論だろうけどこういうのが好き。

 

別にどちらも救いはないけれど、どちらが良いのだろう。村上さんの作品はだいたい得体の知れない悪意みたいなものが出てくるような気がする。海辺のカフカは高速バスで移動するのに合う。羊をめぐる冒険もねっとり気持ち悪い。

 

ともあれ、僕は自分が消滅したときは関わった人皆自分のことを忘れてくれた方が良いと思っている質だから、この辺りの感覚は良く分からない。具体的な記憶じゃなくても望まなくても人は人に勝手に残るものだから、意識的にどうかなんてことは関係ない。これが人を人として扱うことの原型だと思うのだけど、こんなこと等しくやっていたらいくら時間があっても足りないわなとも分かる。

 

先にこっちか。

 

突き詰めない方が良いっていうのは、素朴に世の中の理不尽について考えていくと、結局は自分が居ない方がマシだろうっていうことに至るから。誰かを傷つけたり奪ったりすることは人間である以上不可避で、だとすれば、自分が生きていることに意味はなかろうって。自尊心とか自己肯定感の話ではない。どんな器だって物理的にも精神的にも同時に同じ場に存在することがない以上、可能性として誰かの場所を盗りながら生きているという加害性は内包していている訳で。

 

これの解決策って、誰かに肯定されることではなくて、深くは考えないようにして、自分より価値がなさそうな人と比べて自分のがマシだって思い込むくらいしかないような。奪うを突き詰めれば、生きているだけで酸素も奪うしカロリー奪っているけど、そこまで考えている人はいないような気がする。

 

 

そして、あとの話。

 

 

某政党が掲げている、性行為を原則違法化するというマニュフェストについて、やや細かく。

界隈覗いていると、法律家が反対しているのは良かった。賛成している人も法律家には食いついていないみたいだから、結局はそういうこと。

 

原則違法っていうのは、結論としては正しいけど過程としては説明不足。

 

同意がない性行為を刑法上の犯罪にするっていうのが根っこ。

これだけ見ると当たり前だろうっていう人が結構盛り上がっている。まさにその通り。問題視している人のだいたいは、そのあたり前を前提として、そうじゃないところを見ている。

 

賛成している人は、個別ケースでこれが拾われることが正しい、みたいな安直な見解だろう。

この判決がおかしいって裁判上に上がった事実だけで判断する。裁判で俎上に上がる事実って証明できた事実でしかないし、報道で切り取られたらもっと狭まる。

 

反対する人は普段いったいどんな性行為をしているんだっていう見当違いな見解があるけど、法律は具体的なケースなんて配慮する機能はない。どんだけ信用しているのだか。自分が外にいると思っている人は多い。

 

社会は信用してないのに、法律なら頭を垂れるっていうのはなかなか面白いけど、

 

被害者の同意って、刑法上も当然考慮されている。窃盗罪でも被害者が同意すれば犯罪ではなくなる。けど、これって現実的に見れば、逮捕されるし勾留もされているし、無罪だから良いって言えるのは、他人事の人。

 

んで、暴行脅迫要件を取っ払った時、何が起こるか。

親告罪に戻すなら違うけど。

 

ラブホテルの入り口に警察官が常駐するみたいなこと。

それはそれでありうるとは思うけど、だったらもっと税金上がるだろうなぁ。それもきっと嫌なのだろう。

 

性行為に証拠としての同意を求める感覚は分かるけど、これを国家に後ろ盾させて貰おうっていう感覚が浅はかすぎる。国家は当人を都合良くケアしてくれるような臨機応変なシステムではない。なんでそこまで法律に依存できるのかはよく分からないけど、たぶん、力が欲しいのだろうな。自分の見解を補強してくれるナニカ。

 

そういえば、政治学入門も読んでいるのだけど、政治とは不合理を統合するものだという話。民衆は暗示でたやすく動くとか、論理的でありすぎることは悪手だとか。まぁそりゃあそうだ、快不快がほぼほぼを締めているだろうし。波及効果なんてどうでも良いんだろうなという感じ。人は結局、自分の都合の良いことしか求めてない。だから、人は不合理で生きている。

 

僕は経験則を判断基準にしないようにはしているけど、経験自体は個体として否めない。でも、自分が経験してきたことを真実ともしていない。思い返すと歴史じゃなくていちいち生々しい。

 

じゃあどれが本当の自分なのかっていうと、それすら定かではない。素朴な感覚としては、もうこの世界から退場した方が良いだろうなっていうのと、もっと色々研究したいっていうのはあるけれど、これって別に相反しないし。

 

まぁ。寂しいっていう感覚はあるけど、寂しさって素朴な感覚だと思う。

 

 

おやすみ。

 

 

 

                                                                                           

 

 

 

 

 

ぶつ切り

広告の品具合と食べたくなったもので適当に作っていたら、晩御飯が無駄に豪勢になった。タコとワカメときゅうりの酢の物、肉豆腐、昨日と同じサラダ。入りきる気がしない。肉豆腐は湯豆腐に少し味をつけたくらいのもので、えのきと舞茸と椎茸とかつお顆粒出汁の味がほぼほぼ。優しく美味しい。酢の物。疲れた時に甘い物っていう繋がりは断ち切っているけど、時々クエン酸は欲しくなる。精製砂糖も依存症の一種。

 

まぁ、トータル、異物感は拭えない。

味はちゃんとあるし、美味しく感じるけど、義務感がなんとも。義務感が不純物なのかと言われると微妙なのところ。健康の手段として食べているって、意思はどこにあるのかとか。まぁ、意思なんて要らない、ルーティーンで空腹感を感じるから食べているだけとした方が健全で健康。

 

ヴィーガンだっけが、畜産業を攻撃していて、動物の方が植物より価値があるっていう説を主張していたりするのだけど、これを突き進めていくと、結局人間至上主義だよなぁと。植物だって生命が失われるときはなんらかのメッセージは伝達していると思う。ただ植物は奉仕というか循環の精神があるというだけ。人間如きが把握できる理で生きていない。知らんけど。まぁ人は自分の範疇に含まれるものしか心を割けない。

 

 

睡眠は義務感に含まれそうだけど、未来の出発点からハンデを背負わせることになると思うと、未来の自分に対してやや申し訳ない気分になる。申し訳ないと思った自分も厳密にはもう居ないのだけど。

 

 

さておき。

 

昨日の寝る前に考えていたこと。前置きとも繋がっているけど。

 

幸せとは考えなくて良い状態という命題。

これって多分真なのだろうと思うとなかなか。

 

筆が重くなる次第。けどもここが本質。

 

 

ヘーゲルさんは、意識は自他を区分するところから始まって真理に辿りつけると言いたそうだし、美学の中山さんも自分を突き詰めると本当の自分に辿りつけるっていうけど、そんなことは世の中の99、9パーセントの人がきっと求めていない。

 

おそらく、そういう人物が言う、考えるとか試行錯誤は、考えなくて良くなるための手段としての思考っていう捉え方であって、考えるために考えるっていうっていう枠組みではない。

 

だから、基本的な齟齬が起こる。

 

 

いったん話題を変えて。

 

帰りにやや大型本屋に寄ってきた。結局何も買わなかったのだけど。法学界隈を立ち読みするのも面白かったけど、結局は自分で辿りつくものだと思えば、情報量増やしてもしょうがないなって。中古本もスルーした。今となっては岩波文庫古事記は買った方が良かったなって思うけど、それはそれ。

 

本で言うと、女性の作者だとよしもとばななさんがどうしようもなく好き。ハゴロモ読みかえしていたのだけど、空々しさも生々しさもない。結局は人間性が近いのかどうかっていうことなのかしら。

 

そうして、幸せの概念に戻ってくる。

 

僕はこういう思考停止できるという意味の幸せは1回だけ経験済みだったりする。けど、思考停止って、関係している人を蔑ろにすることに等しい。まぁ相互に幸せっていう状況もあるのかもしれないけど。

 

はぁ、ここではこれ以上書けない感じか。

 

僕は幸せが考えなくていいっていう状態だとすれば、幸せなんてものはちっとも求めてないなというだけ。

 

 

おしまい。

 

 

 

kotowari

概念を食べていると食欲がわかない。この傾向は個人的によろしいけど、器的というか人間的営み的にはよろしくないのだろう。器的に無理矢理回すためには、、、色々あるけどまぁいいや。

 

しっかり栄養補給しとかねばと思って弁当生活も復活させて、加えてレタスとみょうがとミニトマトとシラスのサラダにしてみている。

 

 

ともあれ。

 

今日の話は言語化するのがかなり大変。

 

概念を食べるとはなんぞやって分からないと思う。僕も説明できる気がしない。知識の収集とか何かに活用するためにとかではなくて、純粋に食べるもの。例えば、読書時間で5年ぶりくらいに江國香織さんの「号泣する準備はできていた」を一章読み返してみた。江國さんの文章久々だけど、なんだか空々しいけど生々しい、いや、生々しいのに空々しいか。

 

最初読んだときと随分読んだ感じが違うけど、なんだろうな、これって経験としての自分の器が変わったからではない。多分初見でも号泣はしていなかっただろうなとは思うけど、何か、言葉に付着したナニカを食べている気がする。あまり面白いとは思わなかったのだけど。

 

ところで、僕の友人は学生時代かなり本を読んでいた人なのだけど、女性作家は空々しくて駄目だから読めないって言っていたことを思い出した。例えば性描写がリアルでないから萎えるという話で、あぁそうなのかなと思って聞いていたけど、別に村上春樹さんだってそんなに細かく描写していないだろうから、要は何らかのニュアンスっていうことなのだろう。そう思った作品も聞いていない。

 

割とナチュラルに女性蔑視の感覚を持っている人だったけど、当時と変わっているかどうかは分からない。でもこういう人はある界隈にはモテるらしい。まぁこの蔑視って分析してみると母親へのコンプレックスの反動なのかなと思っている。別にほじくり返して何らかの改善がある訳でもないからやらないけど。要は、この人の女性蔑視は甘えの反動に近いような気がする。こういうことを感じるたびに自分が痛いんだろうなと思うけどしょうがない。自己観と直結しているだろうし。

 

 

ところでの上乗せだけど、某政党が性行為を原則違法にするっていうマニュフェストを掲げているらしい。要は、強制性交罪等罪の暴行脅迫要件をとっぱらうという話。最初見た時、何を血迷っているのだと思ったけど、今思うと結構アリかもなと思う。性的なリスク配分という意味で。

 

まぁ原則犯罪として、同意が違法阻却になるってすると、捜査機関である警察官とか司法機関の検察官とか弁護士がいくらあっても足りないから刑法上は無理。これを大っぴらに掲げる政党は政治がきっと分かってないから投票はしない方が良い。

 

でも、民事だったらアリだと思う。当事者どちらでも訴えられるけど、訴えるためには自分で調査しなきゃならないし手続きも踏まなきゃならない。要は自発性が必要だっていうこと。自分が嫌だったのならそう自分で訴えなさい、訴えたものはちゃんと判断しますよって。

 

現実化したらきっと出生率はもっと下がるだろうけど、社会の総意がそうならそれでも問題ないと思う。性交渉のたびに違法を自覚しながらしなきゃならないし、訴えられることも危険性として把握しながらする行為は楽しいのかどうか。原始キリスト教みたいだけど。

 

個人的には、リスクが完全になくなれば楽しいだろうなとは思う。でもそうなったときこの行為に意味があるっていう共通認識があるのかどうか。

 

 

だいぶ脱線してきたけど、戻って、来られるかな。

 

とりあえず仕事の話。

 

2か月ちょい足らずだけど、この職場の構造みたいなものが分かってきた。個人的には会話楽しいし頭も沸騰するはでうはうはなのだけど。

 

先生としては、1回自分から聞いたことは覚えておけよみたいな内心が、忙しいと出てくる。当たり前だけど、ベテランっぽい人も平気でいっぱい投げている状況はなんなのだろうと思うと、一回は自分たちに投げろっていう環境を作ってきたんじゃなかろうかって。それに慣れると、下はもう一定以上の吸収はしなくて良いやって閉じるのではと見えた。聞けて答えを出してくれる人が居るっていう環境では、その外まではいけない。枠を創ったのは自部たちではとか。

 

僕にはあまり関係ない話だけど。

 

 

やっと戻ってきて。

 

今日の読書時間に、戯れに、むかーしの知り合いから借りっぱなしの「できる人の話し方」っていう本を読んで見たのだけど。なかなか受け付けない。まぁ啓発本だから、自分ができる人になるためにはっていうことだったのだけど、僕は別にできる人と見られたい訳ではない。まぁ結果から考えるっていうのは採り入れようとは思った。相手の安心と納得。

 

この本のできる人って、自尊心の話で、相手は人でなくて、自分を確立するために相手をどう使うかっていう話だった。まぁ大事だとは思う。けど、この文脈でプライベートも良好になるって言ってしまうとなんとも空々しい。人格じゃなくて技術なのかと。

 

 

ということで、概念の話だけど。

 

概念的な交信には、自分がどう在ったかは関係ない。瞬間的な今の自分しか意味を持たない。自分の経験則は基準にできないし、この瞬間の自分がどういう答えを出すかっていうだけ。

 

この何も拠り所にできないところにあるのが概念を食べるという感覚。まぁ、こんな感覚芽生えない方が良い。自分を絶対的に捉えるって宇宙空間に投げ出されることに等しいし、ここで自分を保てるのは、よほどの変態でしかない。

 

 

まぁおしまい。