硯に向かいて

ただの垂れ流し

世界の伸び縮み

書きたいことがいっぱいある。面白いのが、統合された内的世界が拡がるほど、語彙の担当者が細分化されるところ。意味が分からないと思うけど。

 

一般化すると、誰だったらどこまで話せるかっていうカテゴリー分けは誰だって自然にしていて、これを差別だとは誰も思わないはず。言わないことを選ぶのは内心の自由だけど、この区分けはそれほど自由ではない。むしろ不自由を感じているところかも。これをひっくりかえして、どういう風に思考するかにも区分けがあるということ、余計にきっと分かりにくいかも。まぁ仕事モードの思考と日常モードはきっと違うはず。

 

 

さておき。

 

一言だと、今日は演劇を見に行って来ました。二言だと、凄かったです。劇評を書かせて頂くから、劇評用のアカウントはフル稼働している。いくらか断片をメモっているけど、消化しきれていないところがあるから、数日寝かせようと思っている。今のところ2通りの視座がある。読み取る客観と感じる主観。ぱっと考えているところだと、双方の視点は同じところに収束しそうな気がする。俯瞰はである調で、主観はですます調になるかなと。

 

今は日記アカウントだから、劇評には書かないところなら書ける。この話って、閉塞感がある地方の街が舞台。高速道路が通ったから少し賑わっているみたいな。で、なんだか村上春樹さんの世界の終わりとワンダーランドの、世界の終わりパートを想起した。俯瞰でも主観でもない突拍子もない捉え方だけど、害はない。世界の終わりって、寓話的な世界で、価値観が統一されているところにやってきた、主人公っていう異分子の視点から始まる。主人公が誰なのかって考えると並行はしていないような。

 

自分のオリジナルの思考とはどれなのかって考えると混沌に陥るけれど、その時のそれが

自分だってするのが普通は適切なのかも。

 

あと、メディアと芸術の違いが漠然と。

 

共通項は、メッセージを発信するところ。違いは、発信者が意図したメッセージ通りに誘導するのがメディアで、アートの場合は、発信者がそういう表現をしたいっていうところに向いているから、誘導に重きを置いていない。石を池に投げてみるところで終わる、が本当の天才で、波紋を楽しく観測できるのが主流なような。

 

って、考えると、僕が生きたいところって、こういう界隈なのかもしれない。

 

という壮大な前置きをしてからの今日の日記。

 

 

人生とは、演劇のようなもの。

 

善行を善行と思わない人がなんだかんだ救われてしまうのが物語なのだけど、僕はあんまりなんとも思わない。

 

今日行った善行とされることって、まずは恋人さんの家で網戸を設置したこと。価値観としては、恋人の役に立つことをするのは当たり前だろうっていうのがあるだろうけど、この当たり前って誰かの当たり前だからきっと疲れていく。主観としては、何かを組み立てることに好奇心があるっていうっていうのが9割くらい。で、結果的に恋人さんが快適になりました。しかし、その結果に対して貢献の対価はどうでも良い。僕は石を投げただけ。

 

 

そうして、京阪に乗って出町柳から鴨川沿いに向かったのだけど、道中、ほんとに分かりやすい道の真ん中に、定期入れが落ちていた。拾ってすぐ開いて、6か月定期でまだ5か月くらい残っているイコカがあったから、交番に持っていこうってなった。持って行って警察官が全部取り出したら現金も入っていたみたいで、拾得物の権利が云々みたいな話になったけど、僕は見返りが欲しいからこれをした訳でもないし、恋人さんも同じだったから、名前も教えずに去った。

 

情けは人の為ならずっていう言葉は金言。

これで助かった人はきっと世の中は捨てたものじゃないって思って、他に善意を捲いてくれると思う。

 

こちとら、別に捲いてくれなくて問題がない。

 

ちゃんと今日返ってきたから。劇場パンパンだったのに、当日キャンセル待ちの恋人さんが隣に座れたし(これは運営の人が調整してくれた気がする)、その後のご飯も、普通なら予約がなければ無理っぽいところにたまたま入れて、過去最大級の外食ができたし。

 

この繋がりって、非論理的だって思うかもしれないけど、世界は非論理でできてない?

 

今日の出来事を寓話化すると、善行の対価は、わらしべ長者みたいな質が一緒のものとは限らないっていうこと。でも、何かが返ってくると思ってする言動は不純だから、ストレートには繋がらない。

 

 

ごくごく内部世界だともっと繋がっていて、一乗寺のけいぶんしゃにもう一回行けると思わなかったのに行けてヘーゲルさん見つけた。哲学界隈も広がっている。幸せスイッチもタイミングとしては合っていたなとか。

 

幸せとは、脳内物質だっていう話。その物質が出てくるようにスイッチが入るように手術すれば、欲望に捉われた自分から解放されるとか。

 

そう、幸せって、欲望と繋がっている。

欲望ってなんぞやっていうと、基本的には場所を取ることかしら。

 

場所じゃないところに居場所があれば。

 

 

最後。

 

自分のオリジナルってどこに居るのだろう。

有形無形の加護が凄いからそうそうは死なないだろうし、欲望もだいたい惰性なところにあるし、幸せの意味も正直分かっていない。

 

生きているだけで幸せだっていう視点は、輪廻というか自分のことも他人事で見たものだし、周りを見たところで、幸せがなんぞやっていうどころではなさそうに見える。

 

つまり、僕の中でのオリジナルは、オリジナルとされているものを壊すことでしか成立しなさそう。って考えると人生って短すぎるよなぁって。

 

 

おしまいでおやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

観測値

「代助の考えによると、誠実だろうが、熱心だろうが、自分が出来合の奴を胸に蓄えているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花が出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人の間に起こるべき現象である。自分の性質と云うよりは寧ろ精神の交換作用である。だから、相手が悪くっては起こりようがない。」

 

今日読んでいたら出てきた、夏目漱石さんの「それから」の一説だけど、わかりみ。これは代助が父親から、お前は30にもなってふらふらするとはなんということだ、もっと社会に貢献しろ、誠実とか熱心が足りないのじゃないかってちくちく言われたときの頭の中の言葉。

 

本当の意図は夏目さんが存命だとしてもきっと分からない。小説ってきっとそんなもの。代助が考えているのであって夏目さんが考えていることではないし。創作の登場人物の思想を作者に聞くって無粋。

 

ともあれ、この辺りの観念は普遍性がある気がする。

 

妹の娘の命名(なんだか音楽が鳴ってきそう)を母親から聞いたときに電話で、試験についてどうだったかって聞かれた。受けてきたよって答えた。もちろん、意図は分かっていてはぐらかした。そうして、思った通りに、手応えはと。さぁとしか答えられない。普通に考えて、手応えがあったっていう主観の言葉で安心できる程度のことなのか。ここまでやってきたのだから平常心で受けたら大丈夫に違いないってフォローしてくれた。きっと、一般的には優しいのだろう。ここはまだ良い。

 

仕事に関しても、3日目で続けられそうかって聞いてくる。内容を伝えると、「できるん?」って言われた。正直かなり重みがあった。きっと主観的にはそんな高度なことやって大丈夫かっていう心配っていう善意があって、これも一般的には優しいのだろうけど、僕はこういう言葉を遣う人は好きではない。

 

言葉の機能というか語用というか。本質はきっと何かを規定するというところにあるけれど、これって昨日も書いたように危険物で、使いようによっては、他人を規定できてしまう。

 

そうして、母親は子供を言霊で規定する言葉の使い方。昔の方がもっとひどくて、今は変えようと思えばいくらでも変えられるくらいに緩い。あえてやっていないだけで、ごり押せば大丈夫。

 

ただ、姉が母親から離れたのはこの辺りの語用が嫌だったっていうのはあるだろうし、妹の不快感もきっとここにある。ただ、僕から見ると、特に母と姉は似ていると思っている。他人に自分を規定されることが嫌な人って、そのまま流れると他人を規定するようになる。姉からは無茶苦茶規定されていたし。

 

でも、母親を擁護する訳でもないけど、子供の安全を守るためにはルールを規定しなきゃならないっていうのがまずある。それで、母親も個人であって神様ではないから、自分のイライラとか個人的な子供への好き嫌いもブレンドされるのはしょうがないし、愛されてなかったって姉も妹も言っていて特に姉は言っていたけど、何をもって愛とするかの捉え方。

 

あんたなんて産まない方が良かったって言われたらしいけど、それを覚えているくらいの自我はあって、恫喝はあっても暴力はなかったように観測しているし、子供3人とも大学に行かせているし、愛はともかく、親の役目としては申し分もないような。どれだけ言葉で攻撃したとしても、対価を求めないって凄い。世には親への借金みたいな対価関係があるけど、学生時代とかのお金に関して何も言われたことがないだけでかなり恵まれているのではと思っている。

 

関係あるのかないのか、僕のツムツムには出てきていないけど、母親のツムツムには姉が出てきたらしい。

 

僕はずっと姉が流れに乗ることで自責に陥るかもなぁって思っていた。最後に話した時に、母親が自分の子供に悪評を述べるのがどうしようもなく嫌だってぼやいていたけど、この考え方ってかなり危うい。その分ちゃんと高評価すれば子供はどっちに寄ったらいいかくらいはきっと収集できるはずなのに、悪いものを遠ざければ良い子供が育つっていう無菌室で育てるならば、子供は作物と同じではって。

 

時系列で考えれば劣化にならないだろうか。無菌室で育てた時、自分の意に反した言動が起きたとき、そういうものだってなるより、何かフラッシュバックされそう。

 

家族を繋げるのは僕しかいないっていうのは、2人に言われた。

方向は若干違うけど、ここには理想の家族像の押し付けはなかった。一般論を語らなかった

し。まともに繋げようと思ったら個別カウンセリングみたいにできるかもしれない。

 

なんでかっていうと、割と他人事だから。客観じゃないとまともな判断はできないってことを看過している。ただ、この客観は、完全な他人事でもないっていう微妙な視点と立場。

 

世にいう完全な客観みたいなものは存在しない。誰だって基準とするものは自分しか居ないから、冷静に見てとか、客観的に一般的に見てとかっていう枕言葉を遣う人は信用しなくて良い。

 

善意の言葉とはなんぞやっていうと、自分の中の正義のためにある。

正義はほんと怖い。

 

善意じゃなくてたまたま摩擦で相手に善意と捉えられる言葉は、おめでとうとかありがとうとかの社交辞令の中にあったりする。

 

 

正義の話。

 

正義はどういう風にも操作できるから、自分の感情が正しくて、相手もそれを受け入れるべきだって思えるもの。学的な正義論はあまり追っていないけど想像するに、正義の定義って他人にも強制できる思想だろうなって思っている。要は、善意の押し付けに近い。もっと言うと、時代中での正しさでしかないという。

 

 

平等が本当に正しいのかっていうのも考察した方が良い。

 

法的な取り扱いの不均衡は憲法に訴えればなんとかなる時代。離婚した後の再婚禁止期間が短くなった。ただ、ここには、個人間に加えて子供の親みたいな観念があるからややこしい。

 

事実上の不平等に関しては方に訴えても難しい。夫婦別氏制度も、婚姻に際して事実上夫の氏を選ぶ人がマジョリティって言われても、法的にはどっちを選んでも良いっていう建前だから、事実上の不平等を法律によって変えてくれっていう訴えは的外れ。なんでかっていうと、事実上の不整合まで法律が介入すれば、思想への侵襲になる。日本はそうとう良い国。

 

これになんとも思ってない人って、きっと他人の価値観を矯正してもなんとも思わない層なんだろうな。

 

まぁいいか。

 

研修してくれている人って長いから、先生っていうあだ名にしておく。先生の講義は楽しいけど、もう一人の同期としてはしんどいかもしれないなとは思う。語彙が結構法律寄りになってきていて、初めて習っていることの中にさらにテクニカルタームが混じってくるという。まぁどんな言葉も等しく初めてだとすれば、たいしたことはないのかもしれないけど、請求権とか債権譲渡とか出てくるとなかなか大変だろうなと。

 

 

 

最終的になんぞやっていうと、人はもっと個別的で良いんじゃないかなって。

 

 

おしまいでおやすみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

希少品と危険物

買った分の牛肉を使い切った。昨日の夜から明日の弁当までで4食分だから、まぁまぁ良い出来。ただ、味が美味しいかどうかというと良くわからない。慣れなのか品質なのか味付けなのか。明日は弁当作らなくて良いから鯖缶でも食べるか。サラダが食べたい。

 

今日は、面談してくれただいぶ上の方の立場と思われる人が本社から来ていて、少し面談があった。まだ座学中だからどんな感じかと聞かれても答えるのが難しかった。それよりも研修してくれている人に対して、あの人は自分が知らないことも知っている、変人だと評していた。悪い意味ではなく気を遣っている風でもなく、ナチュラルに。良い社風だ。

 

当人は、10年以上やっていても知らないことがいっぱいあると、真面目なトーンで言っていた。さすがの研究者肌。あと、僕と語彙が似ている。OOとは何ぞやって、自分以外でなかなか聞かない。院時代、工学系でAIの研究やっていた同期と暮らしていて、アナログ人とデジタル人間が一緒に住むと全然合わないっていう話もなかなか。この区分だと、一般の人はアナログでもデジタル人間でもない、なんちゃってデジタルなような気がする。

 

まぁ良いや。

 

最近HSPっていう、外界を感じすぎてしまう人の話を見ていて、なんとなく近しいと思っていた。人込みとか満員電車は疲れるのは誰でも疲れるけど、もっと嫌なのはもっと狭い世界で、常にイライラしている人の気分に当てられるとか、雰囲気に抑圧があったら閉塞感で息が詰まるとか。この職場が心地よいのは、雰囲気が穏やかだから。まぁもともと耐性はあったと思う。ノルウェーの森のワタナベの殻みたいに一定のパーソナルスペースを確保する。

 

だから、で良いのか分からないけど、僕は悪意よりも善意にオブラートを被せた押し付けが嫌だとずっと感じていた。善意って勝手にやるものであって、見返りを求めるようなものではないだろうと。なんだか薄情っぽいけど、その一方通行がたまたま重なったものが本物じゃないかと。

 

でも、最近もっと嫌な風潮に気付いた。何も返す気がないのに自分に善意を強制させようという精神。そんな奴おらんだろうって思うし、個人でこれをやっていたら単なるわがままだから、この自分を「自分達」にすり替えて、さらに自分達は弱い立場だから社会が助けるのが当たり前だというさも正義を語っているように言う。気持ち悪い。抑圧されたから抑圧していいっていう考え方は、虐待されたから親になって虐待するのは仕方ないとか、自分が後輩だった時には先輩に偉そうにされたから自分が先輩になったらその鬱憤を次の後輩に発散させて良いっていうのと同じ。

一応、民法には事務管理というものがあって、いったん善意で首を突っ込んだら法的責任が生じるみたいな制度はあるけれど、それでも行動するかどうかはその人次第だし。

 

社会の捉え方にも歪みがあって、自分が見えている社会は日本だけで見てもごくごく狭いにもかかわらず、その世界に都合の良い事実だけを取り入れて、さも社会全体がそうだってする超拡大解釈。

 

ある個人は有限だから、必然的に人の善意も有限な訳だけど、有限の善意を誰に投げるかっていう選択するのはその人だから、勝手に投げるものとはいえ、そんな態度だと善意も避けて通るだろうなと。少なくとも僕は嫌だ。

 

 

最後。

 

言葉の弊害について。

 

感情とか記憶を言葉にするのって、それらそのものではないのだけど、それを自分で読むこと聞くことでフラッシュバックするような。過去を現在としてしまう。正の場合は体感と不可分だからなかなか持続しないけど、負の場合は言葉だけの感情がループするというか、らせん状に落ちていくというか。こういうときに必要なことって、それはおかしいっていう指摘でもないし、まして同情とか共感では余計に増幅させてしまう。ただ聞いて言葉と当人を切り離してあげることではなかろうかと考えている。実際やっている気もするし。

 

なんだかカウンセラーがやってそう。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

輪っか

生活圏が変わったから新しく道中のスーパーでポイントカードを作った。前の所よりかなり安い。牛肉が100グラム98円だし、ほうれん草も一束100円だし、新玉ねぎだって100グラム10円だし。新玉ねぎはサラダにしたいけど、現状サラダを食べるタイミングがあまりないからやめた。牛肉は小松菜とほうれん草と炒めた。朝、グラノーラを食べてみたけど、なかなかボリューミー。

 

さておき。

 

睡眠時間はさらにまともになった。

 

昼休憩は公園に入った瞬間すがすがしくて、気温もちょうど良い。一目散に図書館に行って物色した。学問系にするか小説系にするか迷ったけど、なんとく「幸せスイッチ」っていうタイトルが目に入って、小林さんの小説にした。短編集で1編読んだけど、都市伝説界のスーパーストーカ4強を引き寄せて、互いを追いつ逃げつつさせて、最終的に某童話の虎のように乳製品にさせるという、幸せとは程遠い話だった。まぁ泰三さんだから仕方がない。

 

帰ってからはぼちぼち民訴をやったけど、部屋が散らかっていたことが気になって、ごみを片していたらついでにシンクとトイレの汚れも気になって、掃除をしてからスタート。やっていたら母親から電話がかかってきて、妹の子供の名前が決まったという報告があったり、名前に使われる感じが分かっていたと自慢されたり(この時期に生まれたのだからだいたいの人が予想すると思う)、でなかなか集中とはいかなかったけど。ただ、アウトプットで事例を処理しているときってそこまで集中する必要はないと思う。集中は頭の中を狭めて思考が狭くなってしまう。試験だって制限時間があるから、時間配分とか見切りとかの思考の外にある意識がないといけないし。

 

没頭は大事。研修はちょくちょく休憩を入れてくれるのだけど、ネットが使えないし、わざわざロッカーまでいく感じでもないから、自分の頭の中に何が入っているのかを確認しているのだけど、その時は妨げられると困る。微妙に頭の使われ方が違うような気がするのだけど、没頭しているときは無我でその頭を観測できないから自分の中でさえ証明はできない。

 

研修してくれている人の言葉の選び方が好ましい。ところどころ法学脳みたいなのが滲み出ているし、話すのが上手い教授の講義を聞いているみたい。早いところ哲学談義とか憲法談義をしてみたい。でも、人と話すのは好きですかって聞かれて、同期の女性は即答で頷いていたけど、僕が首をかしげていたら、「私も人と話すのは苦手です、硯さんと同じで1人で本を読んでいた方が楽しい。」と言われた。本の話したことないのになぜバレた。笑

 

 

私は誰に何を言ったかを覚えていないから、よくある上司から部下への苦言の、「前にも言ったけど」っていうのを聞くと、覚えているっていう確信があって凄いと思うって。なかなかピリッとした言葉。問い合わせがあったとき、上から迷路を眺められるようになったらナビはしやすいけど慣れないとなかなか難しいから、最初はお客さんと一緒に迷って聞きたいことを把握できれば良いとのこと。なんとストレスをかけてこない人。頑張ろう。

 

 

最後。

 

端的で研ぎ澄まされた表現を遣えるようになりたいし、輪郭だけで中身が伝わるような表現も遣いたいし、美しさがもっと見えるようになりたいし、欲望だらけだ。解消できるのは自分しかいないという永久機関

 

 

おやすみなさい。

 

不可視化

少し眠れるようになってきた。今日も眠れそう。

 

ご飯は目玉焼き半分とトマト半分と、鶏むね豆苗のウスター炒め、納豆ご飯、大根とわかめのゆかりポン酢。朝ごはん用にグラノーラを買ってきた。真面目に食生活すると量はあまり要らなくなる。でも、今よりは少し太る気はする。

 

さておき。

 

胡散臭いと失礼極まりない第一印象の同僚は、そういう裏があるのではなく、単に神経がやや太いだけだった。厳密には勤務時間前とは言え、朝の申し送りに遅れるのはなかなか凄い。話してみると普通である。唯一の同期だし、適度な距離を保って付き合おう。

 

お昼は公園でお弁当を食べた。少し暑めだけどまだ気持ちよい。図書館も併設されていて、自然もなかなか多い。良いリフレッシュになる。夏はどうしようかなぁ。図書館。カードを作ったけど当時は日常の生活圏から外れていたから諦めていたけど、昼休みに借りることもできるなぁと思い至ってうきうき。今日は目をつけただけだけど、明日は借りよう。お昼休憩の時少しずつ読み進めれば、2週間で読み終わるはず。

 

教えてくれる人は、研修の合間にちょろちょろとしか雑談していないのに、ぼろぼろ面白そうな部分がこぼれてくる。修士論文のテーマを聞いたけど、一発で特定できそうなくらいドマイナーなテーマだったからここには書けない。飲みに行ってみたい。がなんとくなくプライベートと仕事は完全に分けているような気がするから、興味を持ってもらえないと難しそうな。

 

今日も少し勉強したけれど、まだもうちょっと調整が必要。求人サイトから来るメールを放置していたら2000件以上溜まっていた。心にも溜まってきたから、大事なもの以外一気に消して、配信停止やら退会の手続きをしたり洗濯したり。それにしても処理も思考も遅い。最適化が足りないなぁ。点在している知識をまとまった思考回路にしていけば、通常の処理も早くなるし、外れた部分も引き返してバランスとりながらできると思うのだけど、なかなか先は長い。

 

頭の中で考えるのが良いのか、外で考えるのが良いのかと考えた。おそらく外の方が良いだろうという結論。外だと可視化でフィードバックできるし、あまり凝り固まりもしない。そうして、中はちらかしておいた方が良いような気がする。ただ、そのためにはもっとタイピング早くしていかないといけない。人とはみたいに一般化できるのかは知らないけど、ある程度できるようになったときに先にいけるかどうかは、意識して自分に鞭を打つかどうかだろう。僕はおそらく平均値より不器用だし、口下手だから、伸びしろだらけ。

 

最後。

 

最近、不毛な攻撃的な匿名的論争を眺めてしまうのだけど、疲れるし心が重くなるのになんで読んでしまうのだろうと思っていた。ふと、なんだかんだ僕は羨ましく感じているところがあるのだろうと思いつく。昔はフェイスブックで私生活を晒して賛同を交換することに対して思うところがあったけど、それを言った相手に羨ましいのだろうと指摘されたことを思い出す。当時はそんなことはないと反発した気持ちがあったけど、それが目に入るということは、気になっているしその世界の基準で自分を見れば圧倒的劣後者だったから、参加できない僻みみたいなものもあったはず。

 

ただ、本質はここにはなくて、その世界に違和感なく順応できることに対して羨ましい。不毛な匿名的論争もきっと同じ。世界を閉じないとなかなか強いことは言えないし、自分が正しいみたいなことも考えられない。別にどちらが優れているとかではない。そもそも人が見えている世界の量も質も比べられるものではない。無限と無限を比べるみたいなことになるだろうし。

 

匿名的論争の世界は、表現の自由の機能として誰かが提唱した「思想の自由市場」の現実化みたい。まぁ、真理は価値があるから淘汰されずに生き残るみたいな主張とセットだったけど、正しい声よりも大きい声の方が他を蹂躙してしまいそう。眺めるのはもう良いや。

 

広がった世界のどこかに自分の居場所がある、みたいな原動力なのかと思った時期もあった。でもそうじゃなくて、単に自分がそうしたいからという楽しければそれで良い、みたいな動機しかなさそう。やはり、1番適切な表現は、「性癖」。

 

 

最後の最後。

 

理屈っぽい考え事とか、自他の感情みたいなことを想っていると眠れない。頭が稼働するのは仕方がないから、全然自分に関係ない無害な創作を脳内で展開させるのが寝やすいかもしれないと発見した。猫とか胡瓜とか電動自転車とか。ほぼ夢のように忘れるけど、1つ覚えているのは、中途半端な住宅街の中に、1周するのに徒歩10分くらいの池がある。ある日、中心に1本の木が生えているのに気付く。日に日に伸びて太くなっているのに、主人公以外の住民は誰も気付かないように見受けられる、みたいな話。

 

 

さぁ寝よう。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

縁結び

こんばんは。

 

今日は初出勤。予報では雨は今も降っているけど、徒歩出勤帰宅ともに避けてくれた。久々のスーツが濡れそぼるのは出鼻をくじかれかねないから、なかなか運が良い。最寄り駅まで歩くのと直接職場に向かうのはだいたい時間にしたら同じくらい。どうやら駐輪場もあるみたいだから、自転車購入したらこの均衡は崩れる模様。何よりピークに御堂筋線に乗らなくて済むのが大きい。

 

仕事内容としては、なかなか面白そう。特有のシステム以前の、パソコンが重くなった時の対処法とかOSの基本とか色々スキルが付きそうだし、応対も何か混沌とした問い合わせの中から解決に役立つ要素を抽出して知っている人に投げたり聞いたりが当面の目標らしい。相手が聞きたいことを教えるようになるのが最終地点で、そういうスキルが欲しいと思っていたからこれもちょうど良かった。全体的にかなり柔らかい職場なのは、応対相手も仕事で聞いてくるからお互いわきまえているところが大きいように感じた。

 

研修担当の人の説明が分かりやすくて凄いなぁと思っていたら、どうやら院の先輩らしい。20年ぐらいの隔たりで科も違うけど、無闇な親近感。そのうち専攻の細かい部分も聞いてみたいところ。法学をやっていると頭が固くなるって言われたけれど、別に僕に言っている感じがなかったからダメージは受けなかった。確かに一般論としては納得できるし。ただ、同期のもう1人が女性なのだけど、何か不穏な空気がする。ちょっと胡散臭い。原因もなくこんな印象を持つなんて失礼極まりないけれど。

 

ということでだいたい良い感じ。

 

ただ、二日連続3時間程の睡眠でところどころ意識飛びそうになって、足をつまんだり手のひらに爪を立てたりして耐えていて、無理なときもあったから第一印象はあまりよくないかもしれない。まぁそうだとしても自業自得である。

 

一応試験がひと段落したから、しばらくゆっくりできるという説もあるけれど、精神的ドM修験者としてはそうはいかず、論文の構成を少しやった。あと昼休憩時には周りの店やスーパーもコンビニも混むから、公園でゆっくり食べようと思って弁当生活を再開。その後、お風呂読書で今は牛乳と水をお供に夜日記。眠気はどこへ行ったのやら。しばらく平日はこの生活でいこう。酔った頭でする思考を通常状態の脳でもできるように移す。もっと昼に声をあげられるようにならねば。なんのことやら。

 

あまり時間もないので、時事問題を最後に。

 

強制性交罪で無罪判決が出たことに対する抗議があって、それに下品な言葉で批判をした弁護士がいた。その人をCMに起用した王手企業の商品を買わないと主張している人達について。

 

当初の抗議は今や割と理屈っぽく抗議の理由をつけているけど、判決文が公開されるまえにデモが始まった時点で結論ありきの理屈だからなんとも説得力を感じない。批判されてもしょうがない。これに関しては被害者のためだとも断言できないし。被害者のために加害者は罰されるべきだというより、自分の可罰感情を慰撫するために無罪は不当だというのが本音に見える。こんなこと言ってしまったらなんの正当性もないのは無意識にでも分かっているから、おおっぴらには言えないだろうけど。

 

でも不買運動の件は、人を使って広告している以上は、その人に対する悪影響で広告力が減退するのはしょうがないかなと思う。業務妨害までいったらその人は罰せられるだろうし、ブランド神話みたいなのが崩れて、本当に良い化粧品が注目されるようになれば、社会全体の経済としてはまぁ問題ないのかなと。ただ、これが批判されるのも無理はない。

 

さらに考えると、当初の抗議も道交法違反とか不法侵入までに至らないなら、批判されるのを承知であって、批判にも言論で闘うのであれば、不当でもないのかもというところまできた。

 

両方ともべつに正義じゃなくて自分が気に入らないからやっているっていうのが前提だけど。

 

よし、日付変わる前に収めた。

 

おやすみ。

抱負

眠い眠い。3時間弱の睡眠で試験に行ってきた。しかしこんなのは自慢ではない。単にメンタルが弱いだけ。でも、こういう状態はなにか変に研ぎ済まされる。処理能力が上がったというか、周りが良く見えた。もう何年前になるのか、大学院時代の当時5、6個上の人が来ていたのを発見。全然様子が変わっていなかった。メンタル凄い。全然変わらないのはどういうことなのだろう。

 

そうえば、学校以外の試験のだいたいって、集合時間と、開始時間にラグがある。今日の試験も朝の集合が8時45分で、開始が1時間後。これって、別に試験を受ける人達を馬鹿にしているのではなくて、ギリギリに設定したら時間オーバーしてくる人の数が増えてしまうから、きっちり始められるためにはこれくらいの時間の余裕が必要ってことなのだろう。何千人規模だし、何か心理学的なものか、経験則的なものなのか。僕がもうちょっとメンタル強かったらギリギリに行こうかと思うけど、休日出勤の試験官さんの心労も考えるとそこまではできない。

 

集団行動の難しさ。だから僕は集団というものが好きではない。

にも関わらず、帰りに大行列に巻き込まれながらみなさんお疲れ様と頭の中でつぶやきながら駅まで向かう。

 

満月。

 

そのあと恋人さんとご飯に行ってきた。おみくじで言ったら吉の九州料理の店からの、ベトナム料理の大吉。満腹。

 

世界を変えられる、というか、開拓できる人とそれができない人の違いはどこにあるのだろうみたいな話をした。結論まではいかなかったけれど、なんだかんだきっかけみたいことなのかもしれないなと。自分の中の興味の種を育てるのは結局自分だけど、その種に気付くためには外的な要因があるのかもしれない。

 

抽象的だけど、現象としては話が通じるかどうかになる。

 

 

最後。

 

なんとなく、今日から真面目に精神的ドMアスリート街道を突っ走ろうかなと思った。具体的な項目はたくさんあるけれど、纏めると、もっと修行する。

 

 

おやすみ。