硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

分割

なんだか喉が詰まっている感。

 

昨日の続きみたいな話。

 

そもそもっていう言葉は結構好き。あまり使う人は居ないし、実際のそもそもなんてないようなものだけど、その人が掘り進めた現状の階層みたいな意味だと思っている。

 

ということで、そもそも言葉という発明品は、諸々あるけれど、ざっくり言うと、言葉で示すものを言葉で示すもの以外と切り分けるためにある。もともとは伝達のための記号だったのだろうけど、そのうち頭の中の混沌を切り分けるための機能になったと思っている。

 

要は、自分の精神世界を外界に表現しているものが言葉。という感じで、自分が言葉を遣っているっていうところから始まるのだけど、いつも間にか逆転して、言葉で自分が規定されるという現象。

 

言動で表現しないと自分は他人に伝わらないから、わからなくもないけど、言動外の自分が置いてけぼり。自分を掘り下げるときに言葉は必要ない。

 

 

 

あぁざっくり過ぎて嫌だけど、しょうがない。

 

 

生死の切り分け。素朴な感覚はだいたい最大公約数的な意味では一致していると思う。肉体的な死。これは何回か接したけど、確かに衝撃。飼っていた猫が坂に止めていたワゴンのスライド式のドアに挟まって死んだ時とか、10代の僕は、現実はゲームのようにリセットできないって悲しんだ。

 

 

でも、そうした最大公約数っていう考え方って、なんとも気味が悪い。誰かが亡くなった時に最初に思うのが遺族への挨拶とか、なんだかおかしくなかろうか。悲しみを共有しなきゃならないっていう強制感。これって生きている側の視点だろうなって。

 

 

僕の素朴な感覚では、死んだ飼い猫には片割れが居て、片割れは相方が死んだ後に相方のように振る舞うようになったっていうところに本質があるような気がする。

生物が本当に死ぬのは肉体的にくちた後に、その個体の影響を誰も受けなくなったとき。

 

 

 

ところで、法律はどう見ているのか。

素朴に考えていくと、精子とか卵子とかまで生命ってなるけど、そこまで掘っている人は居ないと思うけど、胎児が生命だっていうところになると、結構広いと思う。

 

この辺が関わるのは、民法と刑法だけど、どちらにしても、人程は保護されていない。これは生育可能性が乏しかったっていう時代背景もあるけれど、医療が発展した現代だって100

パーセント出産に至るところまでは行っていないはず。

 

 

 

そうして、死の観念も別に自明ではない。

刑法上の死は臨床医学を参考にしているけど、臨床的に死んでいる急患が蘇生することもあるらしいし。ここでの死は人によりけりってことになる。でも、医師が頑張って救命したら殺人罪が殺人未遂になるっていうのはなんだか不思議。

 

 

言葉の機能の良いところであり、悪いところは、中身が違っていてもざっくりで交信できるところ。だからこその発展っていうのもあるけれど、これを素朴な個人的な関係に引き直すと、面倒なことになる。関係になると中身が問題になるわけで。

 

 

 

最後。

 

こうやって考えていくと、今物理的な自分が停止したとしてもしばらくは影響として生きているのだろうなって思う。自分に倣う人は皆無だろうけど。僕が選別するべきはそういう関係なのではとも。

 

なんでいくら書いても言葉足らずなのか。

 

 

おしまい。