硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

誰なら思い出せる?

 

 

なんとなく骨に良さそうだし安かった釜揚げしらす。ピーマンとごま油で炒めて味付けは白だし。ごまをまぶす。レンジでニラ玉。あとは、豚肉と玉葱と人参炒め。味付けは塩コショウと顆粒コンソメのみ。そう言えば我が家の塩コショウと言えばセットになっているやつだった。一人暮らしのはじめは同じものを使っていたけど、いつの間にか塩は粗塩で胡椒は単独の粗挽きになった。クレイジーソルトは気になる。

 

何が言いたいと言うと、今の僕の料理は色んな人が現実化しているということ。

今日の日記はこんな感じの流れになる予定。

 

 

さておき。

ツムツム問題は解消した。何回も潰れたにもかかわらず、どうやらあの人の番号が電話帳に残っていたみたい。あ、っていう登録名で。消したらツムツム上でも消えたから、まぁそういうことなのだろう。前のアカウントのやつもあったから随分とすっきりした。

 

残っていたみたい、と他人事のように書いているけれど、自分の所業ではある。無数に積み重なった過去の自分が連綿と残してきたという意味で。残るべくして残してあったということなのだろう。というのを断ち切ったのが昨日の自分。あって誰ぞ、消してみようって。

最後のメッセージも発信したし、良いタイミングだったのかなとは思う。

 

そうして、これから僕の現実はもっと加速するのだろうなっていう予言。

ある意味これを現実としとくのは枷みたいな部分があった。凄く切ない気持ちもあるけど、まぁそんなものだ。時の流れとは関係ない。

 

 

なんだか凄く引きずっている感が見えるだけど、別に執着心みたいな感情がそうしている訳ではない。もちろん一生忘れない人物だとは思うけど。

 

 

もう少し一般的なところに引き直してみるけど、自覚的に一生忘れることができない人物は誰にでも何人かは居るはず。例えば30年後に思い出せるかどうかで想像してみると良いし、今三十歳前後なら、幼少期の人でも良い。だいたい家族親族かなって思うのだけど、どうだろう。

 

その人物達はもう海馬に居なくて、側頭葉に居る。

記憶ではなくて、自分そのものを形作っているもの、っていうと分かるかと思ったけど、なんだかどう書いても一般的ではないような気がしてきた。

 

僕は僕に影響を与えた人物はきっと一生忘れることがないと思う。

それは、折に触れて現実化するからであって、記憶力があるということとは無関係。幼稚園、小学校、中学校の同級生くらいはおそらくそらで言えるし、高校は若干怪しくて、大学、大学院はほとんど影響与えられてないから厳しいなと。

 

歴代の恋人さんもそう。

名前どうだっただろうかは若干怪しいけど、皆良くも悪くも影響しているから、良く出てくる。皆幸せになっていれば良いなって穏やかな気持ちと共に。

 

 

 

どうしてこうなっているかっていうと、二十歳くらいから自分の無意識を意識化するっていうことを考えて掘り下げていたところから。そうこうしていると、この自分の癖は誰かの影響を受けているからだなっていうところになってきた。よほどの天才じゃなければオリジナルなんてほぼないと言っていい。

 

文章の癖だってそう。

今やどこがどうブレンドされているのかって分からなくなっているけど、書き始めた頃は村上春樹さんチックになったりしていたり、今は森博嗣さんに流れているかなっていうのはなくもない。

 

多分方向性が一般的とは逆なのだろう。

新しい自分を発見したとき、内側から見出されたのか外側からやってきたのか。

 

 

なんとなく収束してきたかな。

 

 

ところで、人って他人に忘れられたくないものなのかね。

時系列なのか偶然なのかで、自分の肉体が無くなった後の話。僕はさっさと忘れてくれて良い、というかむしろもともと無かったものとして良いと思っているのだけど。

 

僕は勝手に覚えているけどっていう立ち位置。

変な話、文字だけの関わりでも忘れないだろうなっていう人は何人か居る。10年以上前か。ってなるとなんとく一般化された気がしないでもない。

 

真夜中、のお月様も忘れないのじゃなかろうか。

 

 

最後。

 

職場がよそよそしいのは当たり前だろうとなる。

どれだけ接する時間が長かろうと個人的なエネルギーを使うところじゃないから、影響を受けるじゃなくなくて、学習する場。仕事のやり方は学ぶだろうけど、それはあくまで仕事上のその人だし。

 

もう少し先があるのだけど、今日はこの辺で。

 

 

おしまい。