硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

実在

こんばんは。

 

晩御飯のメインは豚こまとピーマンと椎茸の炒めもの。ピーマンは実家の実家の叔父さんが作っているもので、ちょうど消毒をしたところだったらしい。別に人体に悪いものではないらしいけど、良く洗えとのこと。確かに形といい色といい市販品っぽい。まぁ清潔そうなものを求めたのは市場だし、商品価値があるものを送ってくれたということ。まぁやや大きすぎる気もするけど。

 

清潔そうで言えば、水で洗えば大丈夫っていう感覚も危ういような気がしないでもない。水が清浄っていうのもどうなのだろう。水によるような。湯舟につかると最近の数はむしろ増えるというし。まぁ自分由来のものが取り除かれるというのは気分が良いのも分かるから、要は気分と科学的結果をどこまで調整するかという話。

 

さておき。

 

昨日の続きというかなんというか。

なかなか本質的な話だと思う。言語化できないものを言葉で表現する試みだから、うまく書けるかは分からないけど。

 

まず、昨日原始宗教で思いついた仮説なのだけど、キリストも釈尊ムハンマドも同じことに気付いていたというもの。布教対象である人達が住んでいた文化が違うから教化の内容が変わって分化したのでは。新約聖書阿含経もキリストないし釈尊を神聖化して後から編纂されたものらしいけど、基本的には問答形式みたい。ここで思うのは、誰に対しても同じことを言うっていうのは普遍性ではなく、単なる固定化ではないかっていうこと。普遍性自体はこれって言葉で定義できるものではなくて、言葉として形になるものは一見矛盾もありきで変化するものでは。

 

だから、かなり乱暴に言ってしまうと、キリスト教ももともとは別に神様を謳う必然はなかったのではなかろうか。そういう文化だったから神様を選んで人が信じるものを設定してみただけで。もともと土着の信仰があっただろうし、それだったらそれでええやみたいな。仏教だと、神様みたいな話はあまりないけど、これはこれでおそらく土着に乗っかっているような。カースト制度時代もあるし。バラモン、クシャトリア、スードラ、あとなんだっけ?

イスラム教全然読んだことないから想像だけど、偶像崇拝禁止とか戒律厳しいっていうのも、教祖が提示したときの文化がそうだったのでは。

 

要は、そもそも言語化できない普遍性を問題としているのだから、その名前をどう付けるのかっていうのは、より伝わるように設定すればいいということ。

 

かなり政治に悪用されている感はあるけど、政治学的には使えるものは使わないといけないだからしょうがない。

 

日本は無神論者が多いっていうのは、この文脈から考えると外から教化する必要がないほどに内側に信仰があったのではと。今は分からないけど。

 

ということで、問答形式の教典がバイブルになるっていうことは、人は正解を求めたがるっていう性質があるのだろうなと。正解がない状態は不安であって、不安を不安のままにしておけない。

 

仏教だと煩悩と認定されそうだけど、この不安をどう扱うかが悟りの境地に至れるかどうかのような。仏教の本質は、個人が孤独だということに気付くなのだろうなって今日読んでいて思った。仏法僧の僧ってもともとは仲間とか集団を意味するらしい。転じて、修行仲間の集まりみたいになっているみたいだけど。

 

 

そうして、哲学のヘーゲルさん。

 

難解過ぎてあまり読みほぐせていないのだけど、今日読んだところはやたらとしっくりきた。「いまここ」の話。

 

「いま」は夜だっていう表現をしたとして、「夜」は明日の朝になったらもはや過去のものであって、「夜」は「いま」を表現するための媒介でしかないという命題。「いま」は持続するものだけど、媒介物によってしか表現できない。「ここ」も然り。

 

つまり、「いま」も「ここ」も存在はしているけど、言語にしてしまうと表現しきれないということ。僕が人と関係していて思う齟齬を表現してくれていた。

 

これを進めていくと、「自分」も然りじゃないかと飛躍する。「自分」は実在するけど、表現するためには、自分はこういう経験をした、自分の感情はこうだっていう媒介物を自分としてしまう。媒介物自体ももちろん重要なことだけど、媒介に囚われない自分っていうのが、戻ってきて悟りなのではって思わなくない。

 

 

同じ文脈なのか別文脈なのか分からないけど、僕はおそらく昔の知り合いに再会して会話したら、きっと変わってないなって言われると思う。常に変化をしなければ生きている価値がないくらいの価値観なのになぜこうなるのかっていうと、きっと外付けの価値観を取っ払っていくと、もともと自分が持っているものに行きつくということなのだろうなと。外付けのものさしでアップデートしたことは別に変化じゃなくて単なる順応。

 

順応自体ももちろん大事だと思うけど、順応したものさしを個人のものにするって、どうしてもずれが生じるような。このズレが生きづらさなのではとか。って基本的に毎日生きづらいと思っている僕が言うのはアレだけど。

 

そうそう、宗教って得体が知れないっていう感覚を持っている人が多いけど、外に正解

を求めるっていう意味ではみんな得体が知れない意味の宗教はしていると思う。

 

自分だけに依って立つのが宗教上の悟りだと思うけど、別にこの寂しさを実感する必要もないというのが今の暫定的結論。どうしようもない人だけが至れば良いのではと。

 

 

おしまい。

 

皆さん良い夢見れますように。

 

 

おやすみなさい。