硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

世界の伸び縮み

書きたいことがいっぱいある。面白いのが、統合された内的世界が拡がるほど、語彙の担当者が細分化されるところ。意味が分からないと思うけど。

 

一般化すると、誰だったらどこまで話せるかっていうカテゴリー分けは誰だって自然にしていて、これを差別だとは誰も思わないはず。言わないことを選ぶのは内心の自由だけど、この区分けはそれほど自由ではない。むしろ不自由を感じているところかも。これをひっくりかえして、どういう風に思考するかにも区分けがあるということ、余計にきっと分かりにくいかも。まぁ仕事モードの思考と日常モードはきっと違うはず。

 

 

さておき。

 

一言だと、今日は演劇を見に行って来ました。二言だと、凄かったです。劇評を書かせて頂くから、劇評用のアカウントはフル稼働している。いくらか断片をメモっているけど、消化しきれていないところがあるから、数日寝かせようと思っている。今のところ2通りの視座がある。読み取る客観と感じる主観。ぱっと考えているところだと、双方の視点は同じところに収束しそうな気がする。俯瞰はである調で、主観はですます調になるかなと。

 

今は日記アカウントだから、劇評には書かないところなら書ける。この話って、閉塞感がある地方の街が舞台。高速道路が通ったから少し賑わっているみたいな。で、なんだか村上春樹さんの世界の終わりとワンダーランドの、世界の終わりパートを想起した。俯瞰でも主観でもない突拍子もない捉え方だけど、害はない。世界の終わりって、寓話的な世界で、価値観が統一されているところにやってきた、主人公っていう異分子の視点から始まる。主人公が誰なのかって考えると並行はしていないような。

 

自分のオリジナルの思考とはどれなのかって考えると混沌に陥るけれど、その時のそれが

自分だってするのが普通は適切なのかも。

 

あと、メディアと芸術の違いが漠然と。

 

共通項は、メッセージを発信するところ。違いは、発信者が意図したメッセージ通りに誘導するのがメディアで、アートの場合は、発信者がそういう表現をしたいっていうところに向いているから、誘導に重きを置いていない。石を池に投げてみるところで終わる、が本当の天才で、波紋を楽しく観測できるのが主流なような。

 

って、考えると、僕が生きたいところって、こういう界隈なのかもしれない。

 

という壮大な前置きをしてからの今日の日記。

 

 

人生とは、演劇のようなもの。

 

善行を善行と思わない人がなんだかんだ救われてしまうのが物語なのだけど、僕はあんまりなんとも思わない。

 

今日行った善行とされることって、まずは恋人さんの家で網戸を設置したこと。価値観としては、恋人の役に立つことをするのは当たり前だろうっていうのがあるだろうけど、この当たり前って誰かの当たり前だからきっと疲れていく。主観としては、何かを組み立てることに好奇心があるっていうっていうのが9割くらい。で、結果的に恋人さんが快適になりました。しかし、その結果に対して貢献の対価はどうでも良い。僕は石を投げただけ。

 

 

そうして、京阪に乗って出町柳から鴨川沿いに向かったのだけど、道中、ほんとに分かりやすい道の真ん中に、定期入れが落ちていた。拾ってすぐ開いて、6か月定期でまだ5か月くらい残っているイコカがあったから、交番に持っていこうってなった。持って行って警察官が全部取り出したら現金も入っていたみたいで、拾得物の権利が云々みたいな話になったけど、僕は見返りが欲しいからこれをした訳でもないし、恋人さんも同じだったから、名前も教えずに去った。

 

情けは人の為ならずっていう言葉は金言。

これで助かった人はきっと世の中は捨てたものじゃないって思って、他に善意を捲いてくれると思う。

 

こちとら、別に捲いてくれなくて問題がない。

 

ちゃんと今日返ってきたから。劇場パンパンだったのに、当日キャンセル待ちの恋人さんが隣に座れたし(これは運営の人が調整してくれた気がする)、その後のご飯も、普通なら予約がなければ無理っぽいところにたまたま入れて、過去最大級の外食ができたし。

 

この繋がりって、非論理的だって思うかもしれないけど、世界は非論理でできてない?

 

今日の出来事を寓話化すると、善行の対価は、わらしべ長者みたいな質が一緒のものとは限らないっていうこと。でも、何かが返ってくると思ってする言動は不純だから、ストレートには繋がらない。

 

 

ごくごく内部世界だともっと繋がっていて、一乗寺のけいぶんしゃにもう一回行けると思わなかったのに行けてヘーゲルさん見つけた。哲学界隈も広がっている。幸せスイッチもタイミングとしては合っていたなとか。

 

幸せとは、脳内物質だっていう話。その物質が出てくるようにスイッチが入るように手術すれば、欲望に捉われた自分から解放されるとか。

 

そう、幸せって、欲望と繋がっている。

欲望ってなんぞやっていうと、基本的には場所を取ることかしら。

 

場所じゃないところに居場所があれば。

 

 

最後。

 

自分のオリジナルってどこに居るのだろう。

有形無形の加護が凄いからそうそうは死なないだろうし、欲望もだいたい惰性なところにあるし、幸せの意味も正直分かっていない。

 

生きているだけで幸せだっていう視点は、輪廻というか自分のことも他人事で見たものだし、周りを見たところで、幸せがなんぞやっていうどころではなさそうに見える。

 

つまり、僕の中でのオリジナルは、オリジナルとされているものを壊すことでしか成立しなさそう。って考えると人生って短すぎるよなぁって。

 

 

おしまいでおやすみなさい。