循環論法
村上春樹のノルウェイの森を読み返している。タイミング的には森晶麿さんの黒猫シリーズの方が良さそうだったけど、見つけたものは仕方がない。ブックファーストのブックカバーが色褪せている。たしか友人に借りっぱなしの本。まぁ友人には僕らはみんな河合荘っていう漫画を5巻くらい貸しっぱなしだから何も言われないだろう。
最初に読んだのがまさにワタナベと同い年の頃くらいで、この友人にお前ワタナベみたいだなって言われたなぁっていうのはともかく。この時もモバゲーか何かで日記を書いてみたけど、100文字程度だったから言葉の記号性もよく分かっていなかったし読み流したのだろうけど、芯に残っていたのだろうなってフレーズがあった。
「文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や想いでしかないのだ。」
発話も含めてもいいし、文章って基本的に事後でしかない。なにかその言葉を発しようとした意識みたいなものと言葉自体には、どうしてもタイムラグがある。本質的な問題は、言葉では意識を完全に再現することはできないこと。
だから、正確な言葉を模索する。
単語っていうより、自分という存在が発した文脈としてこれが自分の意図通りに見えるか。僕はどう見えますかって自分の意図を決めずに丸投げするからややこしい。
ダブルバインドっていう社会学用語に親和性があるのかなって思ったけど、あまり良くわからなかった。自己言及って言葉には当たり前に含まれているだろうし。
さて、感謝の循環の話に戻ってくる。
贈与が社会的なシステムっていうのを見たけど、感謝もだいたいが社会システムだと思う。システムっていうのは循環のことで、そういう風にやれば対価があるっていうこと。
キリスト教がなんか嫌だなって思うのは、感謝も懺悔も自分の為じゃんって思うところ。確かに真理だなって思うけど、何か違うっていう直感。
僕が単なる言葉自体に独立の意味を見いだせなくなったのは、あまり言いたくない分裂経験があったから。というか、そんなこと日常でありふれている訳で。
言葉っていうのは、それほど当人を示してしてない。良くも悪くも。
じゃあ何で当人を把握するかって言ったら、物理的世界なのだから物理的指標にしかない。
どれくらい現実を自分に使ってくれるか。使ってくれることは勝手なことであってそこを取り上げるかどうかはまた別の話。
もちろん、僕が現実を誰かに使ったことが僕の好意の表現かどうかっていうの微妙な話。相手の好意なんてどうでも良いっていう前提で使っているだで、双方通行を期待も欲望もしていない。
たぶんここが人と関係する上で致命的な欠陥なはず。
これって、自分が誰かに良い影響したことをフィードバックできないことと等しい。これもご飯として食べられていれば、もう少し違ったのだろうけど。
おしまい。