硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

観測値

「代助の考えによると、誠実だろうが、熱心だろうが、自分が出来合の奴を胸に蓄えているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花が出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人の間に起こるべき現象である。自分の性質と云うよりは寧ろ精神の交換作用である。だから、相手が悪くっては起こりようがない。」

 

今日読んでいたら出てきた、夏目漱石さんの「それから」の一説だけど、わかりみ。これは代助が父親から、お前は30にもなってふらふらするとはなんということだ、もっと社会に貢献しろ、誠実とか熱心が足りないのじゃないかってちくちく言われたときの頭の中の言葉。

 

本当の意図は夏目さんが存命だとしてもきっと分からない。小説ってきっとそんなもの。代助が考えているのであって夏目さんが考えていることではないし。創作の登場人物の思想を作者に聞くって無粋。

 

ともあれ、この辺りの観念は普遍性がある気がする。

 

妹の娘の命名(なんだか音楽が鳴ってきそう)を母親から聞いたときに電話で、試験についてどうだったかって聞かれた。受けてきたよって答えた。もちろん、意図は分かっていてはぐらかした。そうして、思った通りに、手応えはと。さぁとしか答えられない。普通に考えて、手応えがあったっていう主観の言葉で安心できる程度のことなのか。ここまでやってきたのだから平常心で受けたら大丈夫に違いないってフォローしてくれた。きっと、一般的には優しいのだろう。ここはまだ良い。

 

仕事に関しても、3日目で続けられそうかって聞いてくる。内容を伝えると、「できるん?」って言われた。正直かなり重みがあった。きっと主観的にはそんな高度なことやって大丈夫かっていう心配っていう善意があって、これも一般的には優しいのだろうけど、僕はこういう言葉を遣う人は好きではない。

 

言葉の機能というか語用というか。本質はきっと何かを規定するというところにあるけれど、これって昨日も書いたように危険物で、使いようによっては、他人を規定できてしまう。

 

そうして、母親は子供を言霊で規定する言葉の使い方。昔の方がもっとひどくて、今は変えようと思えばいくらでも変えられるくらいに緩い。あえてやっていないだけで、ごり押せば大丈夫。

 

ただ、姉が母親から離れたのはこの辺りの語用が嫌だったっていうのはあるだろうし、妹の不快感もきっとここにある。ただ、僕から見ると、特に母と姉は似ていると思っている。他人に自分を規定されることが嫌な人って、そのまま流れると他人を規定するようになる。姉からは無茶苦茶規定されていたし。

 

でも、母親を擁護する訳でもないけど、子供の安全を守るためにはルールを規定しなきゃならないっていうのがまずある。それで、母親も個人であって神様ではないから、自分のイライラとか個人的な子供への好き嫌いもブレンドされるのはしょうがないし、愛されてなかったって姉も妹も言っていて特に姉は言っていたけど、何をもって愛とするかの捉え方。

 

あんたなんて産まない方が良かったって言われたらしいけど、それを覚えているくらいの自我はあって、恫喝はあっても暴力はなかったように観測しているし、子供3人とも大学に行かせているし、愛はともかく、親の役目としては申し分もないような。どれだけ言葉で攻撃したとしても、対価を求めないって凄い。世には親への借金みたいな対価関係があるけど、学生時代とかのお金に関して何も言われたことがないだけでかなり恵まれているのではと思っている。

 

関係あるのかないのか、僕のツムツムには出てきていないけど、母親のツムツムには姉が出てきたらしい。

 

僕はずっと姉が流れに乗ることで自責に陥るかもなぁって思っていた。最後に話した時に、母親が自分の子供に悪評を述べるのがどうしようもなく嫌だってぼやいていたけど、この考え方ってかなり危うい。その分ちゃんと高評価すれば子供はどっちに寄ったらいいかくらいはきっと収集できるはずなのに、悪いものを遠ざければ良い子供が育つっていう無菌室で育てるならば、子供は作物と同じではって。

 

時系列で考えれば劣化にならないだろうか。無菌室で育てた時、自分の意に反した言動が起きたとき、そういうものだってなるより、何かフラッシュバックされそう。

 

家族を繋げるのは僕しかいないっていうのは、2人に言われた。

方向は若干違うけど、ここには理想の家族像の押し付けはなかった。一般論を語らなかった

し。まともに繋げようと思ったら個別カウンセリングみたいにできるかもしれない。

 

なんでかっていうと、割と他人事だから。客観じゃないとまともな判断はできないってことを看過している。ただ、この客観は、完全な他人事でもないっていう微妙な視点と立場。

 

世にいう完全な客観みたいなものは存在しない。誰だって基準とするものは自分しか居ないから、冷静に見てとか、客観的に一般的に見てとかっていう枕言葉を遣う人は信用しなくて良い。

 

善意の言葉とはなんぞやっていうと、自分の中の正義のためにある。

正義はほんと怖い。

 

善意じゃなくてたまたま摩擦で相手に善意と捉えられる言葉は、おめでとうとかありがとうとかの社交辞令の中にあったりする。

 

 

正義の話。

 

正義はどういう風にも操作できるから、自分の感情が正しくて、相手もそれを受け入れるべきだって思えるもの。学的な正義論はあまり追っていないけど想像するに、正義の定義って他人にも強制できる思想だろうなって思っている。要は、善意の押し付けに近い。もっと言うと、時代中での正しさでしかないという。

 

 

平等が本当に正しいのかっていうのも考察した方が良い。

 

法的な取り扱いの不均衡は憲法に訴えればなんとかなる時代。離婚した後の再婚禁止期間が短くなった。ただ、ここには、個人間に加えて子供の親みたいな観念があるからややこしい。

 

事実上の不平等に関しては方に訴えても難しい。夫婦別氏制度も、婚姻に際して事実上夫の氏を選ぶ人がマジョリティって言われても、法的にはどっちを選んでも良いっていう建前だから、事実上の不平等を法律によって変えてくれっていう訴えは的外れ。なんでかっていうと、事実上の不整合まで法律が介入すれば、思想への侵襲になる。日本はそうとう良い国。

 

これになんとも思ってない人って、きっと他人の価値観を矯正してもなんとも思わない層なんだろうな。

 

まぁいいか。

 

研修してくれている人って長いから、先生っていうあだ名にしておく。先生の講義は楽しいけど、もう一人の同期としてはしんどいかもしれないなとは思う。語彙が結構法律寄りになってきていて、初めて習っていることの中にさらにテクニカルタームが混じってくるという。まぁどんな言葉も等しく初めてだとすれば、たいしたことはないのかもしれないけど、請求権とか債権譲渡とか出てくるとなかなか大変だろうなと。

 

 

 

最終的になんぞやっていうと、人はもっと個別的で良いんじゃないかなって。

 

 

おしまいでおやすみ。