硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

偏見解消

 

久しぶりに卵焼きを作った。まっ黄色のだし巻きはなんとも機械的だけど、人が作ろうと思えばそうとうな技術というか細やかさが要る訳で。自分は見栄えに疎いからあまり気にしていないけど、できるようにはなっておきたい。何を目指しているのか。

 

 

さておき。

 

バイオリズムと思い出す人って相関している。落ち気味になると、昔の恋人を検索する癖がある。見つかってどうこうっていうのはない。一度三年越しくらいに再開したけど、その時点で随分と離れてしまっていたから、今並んで歩くことはない。ただ、幸せだったら良いなぁっていうだけの話。それを言い出すと、幸せで居て欲しい人とか何しているのか気になる人がいっぱい居るから、なんだろう。要は、自分と関係した人は少なくも幸せになっていて欲しいなって思っているだけか。

 

でも、知らない人の幸せと比較して、自分の知り合いの方が幸せであって欲しいのかって問われると、そこは比較できないような。幸せの定義を誰かより裕福だとか、誰かより生きるのが楽だって設定するとそうなるかもしれないけど、なにか違う。

 

ところで。

 

人が単語に込める独自の意味を考えていた。マジックワードだったら分かり易いけど、もっとありふれた言葉、例えば名字とか名前とか、雨とか月とかの普通名詞とか。厳密に考えていくと、自分の中では単語そのままの意味で何の気なしに使った言葉が相手の地雷を踏むこともあるだろう、っていう理由もあって、一般的な会話ってあまりできなかったのだろうなって分析。

 

いまそういうものがなくなりつつあるのは、結局のところそんなこと不可知だし、その単語で何か悲しい記憶が想起されたとしても、意図できないのだから仕方がないっていう風に諦めてきた。そんな絶対わからないものに対する想像で、自分の言葉を縛ってもしょうがない。これは行動にも影響している。

 

こういうねじ曲がった回路を直している最中なのだけど、僕は基本的に人間関係を悲観的に捉える傾向がある。自分が責められているように想像する。

 

 

というのも、今の職場今週の金曜日で終わりなのだけど、職場の人が話かけてきて、今週で終わりだよね? 木曜日昼ごはん一緒に食べませんか? ごちそうするしって言われて、反射的に行きますって応えた後最初に思ったのは、どんなダメ出しされるのだろうっていうことだった。紹介予定派遣で社員になれなかった自分に対してここが駄目だったって言ってくるのだろうって。

 

しかし、我に返ると、本当に駄目だったたった半年の派遣を最後にご飯に誘うわけがないし、多分今後を心配してくれているだけで、アドバイスはあってもダメ出しはない。何で人を無駄に敵視しているのだろう。

 

ってところを思うと、基本的に人と関わるのが怖いってところがあるのだろうなって。

 

セルフ・カウンセリングで考えると、人の需要に応えなきゃっていう固定観念があった。硯はこういうキャラだったっていう需要もあったし、基本的には断っちゃいけないという枠。

 

そうしないといけないってしたのは自分だったのかどうかは知らないけど、まだ人の要求を断るのは嫌な感じがする。

 

 

でも、変わってきたなって思うのは、要求を断ってもそのまま関係してくれる人が居ること。僕が僕のままで良いって認めてくれる存在が在ることがどれだけ有り難いか。

 

そうやって固定観念を取り払っていくと、本当に供給したい部分と、需要に応えないといけなかった部分はある程度重なっているらしいっていうことも分かってきた。

 

 

誰かさんは埃って表現していたけど、クリーニングはまだまだ必要。

 

 

供給ってところから考えると、自分が社会においてどれだけ使えるかっていうところに興味津々。競争で勝って自尊心が芽生えるっていうより、誰かの為になって、あぁ自分って生きていて良いのだって思うだけ。とりあえずはこれで良い。

 

 

おしまい。