硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

火はなかなか涼しくならない

戯曲データがPDFで届いた。もう少し簡略されたものかと思ったら台本そのものだった。台詞で検討したかった部分もあったからかなりありがたい。まぁ90分の台詞と情景を全部頭の中で再現できるはずもなく、再現できないからといって表現物を見る意味がないはずもない。研究資料としても嬉しいけれど、それよりも文字で作品を読める楽しみの方が勝っている。

 

大昔、宿題で読書感想文を書かされていた頃は、本文の引用で文字数を稼いでいた。自分の中で扱える表現が全然なかったから。きっと表現物から感じ取るものが少ないという訳でもない。むしろ言葉が出ないときの方が頭の中は豊かかもしれないし。今回はもったいないからなるべく引用は使わないつもり。文字数が足りなくなる。

 

筋トレの賜物。

 

 

筋トレと言えば、毎日何かを継続することが筋トレで、対価なしに筋トレできる硯は凄いって言われた。文字通りの意味の筋トレはすぐ可視化されるから、達成感を得るためには肉体を鍛える方が手っ取り早い気がする。肉体は貧弱極まりないのだけど。筋肉付くと歩くとき体が重いし。おじいちゃんみたいだ。そうして、勉強という言葉より筋トレの方が自然に動く気がする。本当は自分がしていることをあえてこんな言葉で括る必要はないのだけど、客観的に捉えたら、何か表する言葉が要る訳で。

 

情報がない状態で論文の問題について考えているときに思ったのだけど、入力された情報に比べたら、自分が扱える言葉や論理は微々たるものでしかない。ただ、なんとなく比例しているような気がする。書けるのは知っていることの6割程度しかないっていうのを誰かが言っていたけど、体感としてはもっと少ないような気がする。おそらくアウトプットへの筋トレが足りてないからアンバランスになっているのだろう。インプットした分吐き出さないといけない。

 

この日記も表するなら筋トレになるけれど、まだ足りていないのか。まぁ惰性みたいなところはあったから仕方がない。これからはもう少し注意深く書かねば。新しいことを書くとか。ってなると、今回の機会は凄く有難いのだろうなと。縦書きで書けるところもあるみたいだから、日記とは別にそっちで創作に挑戦しても良いかもしれない。やってみないと分かないし。アウトプットの年。

 

文字は書かれた瞬間に死んでいるって書いていたのは、森博嗣さん。あの時あぁ書いていたじゃないかって、過去の文章に対する指摘する人に対する言葉だった。あの時はあぁ考えていたけど、今は違う。そうやって変化できることが自由だろうという趣旨。コラムとかエッセイとかには適用できそうだけど、表現物だと少し変わってきそう。

 

 

おぉ、時間が。

 

最後。

 

演劇でも出てきたし、つぶやき場でも盛り上がっているけど、正義の話。

 

正しさの観念がいつ生まれるかっていうと、人が二人以上存在した時だろうなと。誰か1人の考えとか行動ってその人の中では当たり前で、正しいからっていう動機は必要ないし、おそらくそういう言葉もなかったはず。二人以上の共同生活には言動の擦り合わせが前提項目で、その時正誤の観念が産まれて、もっと人が増えていくと、多くの人が肯定する価値観が正義になる、みたいな。つまり、人って他人からの肯定を欲していて、肯定されることで何か力を得たと感じて、その力を他者に及ぼすようになると単なる共同生活のルールだったものが、正義っていう凄く良いことみたいに思い込んで、それに従わない人を悪と認定できるようになる。

 

僕はこういう切り分けって人を抽象化して語るには使いやすい観念だと思うけど、具体的な問題に対してこれを使うと上手くいかないというか、使う道具として適切ではないだろうなと。哲学好きだけど、正義論には全然食指が向かない。

 

こういうざっくばらんな世界から離れる方法は筋トレではないような気がする。

じゃあ何かというと、今のところ分かっていない。

 

 

さて、明日も楽しもう。

 

おやすみなさい。