硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

今日は午前中から外に出たのだけど、いい季節だな。一軒家にはだいたい花が咲いていていい匂いが漂っているし気温もちょうど良い。匂いの好き嫌いは食の好き嫌いと近いような。花の匂いは甘さみたいなところに近いのだろうけど、経験によってどうにかならないものもあるから微妙に違うのか。野草の中にはもの凄く臭いものがある。ドクダミも臭いけどやや香草感があるからまだマシなような。

 

一番の違いは人に適用されるかどうか。まぁカニバリズムは禁忌にしろ、人を味覚で味わうというのはないこともない。汗とかなんとか。匂いもそういうところはきっとある。これは経験というより、その人とかDNAとかの問題なのだろうか。

 

全然関係ないけど、一番近所のコンビニは、いつ行っても汗臭さが鼻につく。店員さんの制服を洗ってないからなのかどうか分からないけど、不潔な印象は拭えない。こびりついている。ただ、立地がちょっと悪いにも関わらずいつもなんだかんだお客さんがいる。何かに守れているのだと思う。

 

そうして、嗅覚って味覚とは違う意味の本能で、生理的に相性の良い人を選別する機能があるのかも。異性の方が良いにおいがするとかなんとか。まぁだいたいの人はだいたいの人の匂いが分かるような距離に行かないっていう物理的なパーソナルスペースがありそうな。まぁよほど正負の方向にはみ出してない限り無臭な世界なのだろうけど。匂いを感じる対象が匂いを発していると捉えるのか、自分がその匂いを捉えているのか。自我の範囲の捉え方にもよるのかな。知らんけど。

 

中学時代、ワキガだったと思うのだけど、嫌われている人が居た。フルネームも思い出せる。そうしてそれが匂い故だったのか、その人の人格故だったのかは未分離だったりする。僕はそこまで排斥していた訳ではないけど、嫌われた目で見られることが多かったからそういう人格になったのかもしれないとはいえ、人格自体も好きではなかった。なんてこと言い出すと中学時代のクラスメート1人も連絡取り合う仲になっていないからなんとも言えないけど。

 

そうして、カフェバイト時代の店長もワキガだったのだけど、なかなか嫌われていた。良い大人が臭い臭いと言い募って共通の敵にしていた。権力構造に上下があるからおおぴらに排斥はされなかったけど、まぁ頑固なところはあるからなぁとか。僕は店長の読書癖が合っていたし他人と自分を峻別するところも良かったから、あの職場で雑談するのはこの人が一番心地よかったのだけど、まぁ匂いは分かる。そうして雑談したあと他の人に店長と楽しそうに話していたけど一体何が面白いのみたいなことを聞かれる。

 

異質なものへの排他性は、成長しないのか、大人になってもあえて見ないようにしているのかは分からないけど、多数派だからという理由だけで正しいみたいな共通精神は、気持ちが悪い。嫌いだっていう共感数が増えることで自分の嫌いが何か正義みたいなことになるのは、人間のDNAに刻まれた歴史みたいなことなのだろうか。好きで括られるとまだましかというとそうでもないような気がするから、そもそも括らない方が良いのではと思わなくもない。寂しいけどね。

 

ただ、世界の見え方が世界を決めるっていう話から考えると、こういうのも僕の精神世界の反映だったのかもしれないという仮説もある。かなり極論っぽい考え方だけど、多かれ少なかれ世界の見え方にはそれぞれ文化的だとか個人的だとか社会的とか無数のバイアスがかかっていて、その偏向自体は特に問題ない訳で。

 

問題は、どういう文脈にせよあなたの世界も自分の世界と同じだよねっていうことを求める偏向。似ているくらいならまぁ良いかってなっているけど、自分の訴えのために、他人を巻き込むことはいかん。喜怒哀楽の表現は個人的なものであって、不謹慎だとか、悲しみとは涙だとか、固定観念を他人に押し付けちゃいけない。あと、他人との交流ってどうあっても寛容がある。自分が親だから他人がやっていた許さないことも許す。主語は子供だからでも同じ。ここに情があるのかというとそうでもないような気もする。自己の延長みたいなものだし。

 

 

でも、こうなってくると、どうやって他人と交流するのかっていうことになりそうだけど、交流も断捨離するみたいなことで良いのかなという暫定的結論。その場のみとかじゃなくて個人的なところだと、よほどのことがない限り、他人はわざわざ自分と関わってくれているみたいな感覚で良いのかなと。この感覚と自己価値を直結させると自分なんて石ころだみたいなことになるけど、自分と他人から見た自分の価値全然繋がっていない。認められることに重きを置かなくても良いのではっていう話。ただ、これは自分が流動しているっていう前提ありき。

 

最後。

 

自我の話を、脳科学の臨床の話と自我発達論の心理学系列で並行して読んでいるけど、なかなか恐ろしい。心理学系列の話だと、自我とその外の境界は曖昧だっていうのがある。例えば自分の所有物とか服とか履いている靴とかは自己の1部で、接近だけど、同じ物でも他人が身に着けていれば自我のからは離れて自我ではなくなるみたいなこと。愛着なのだろう。僕はあまり自分の物を大事にしないから良くわからないけど。それで、脳科学の方は、脳疾患が起こって、身体なんとか症になったとき、自分の片腕を自分の物じゃないように認識してしまう症例があるらしい。言語野も他の五感もまともなのに、そこだけ死角になってしまう。

 

これを、疾患がないから自分は彼岸だけど興味深いって捉えるのが通常の感覚なのだろうけど、僕は、健全とされている脳機能があっても死角があるのじゃないかって思うから、おそろしい。死角があることが恐ろしいっていうのもあるけど、死角を自覚しない人が一般的だっていう妄想の部分も。それでも完全な自分だって思えるのは羨ましくもあるけれど。

 

 

メモ。

 

1周目終了。全体像を感覚的に掘り返した。掘り返すと他のものも掘り返されるから大変。

そろそろ劇評の公募の文章を考えねば。採用される気がしない。

 

 

おしまい。