自分が自分であるために
思えば歳を取っていう観念があるけど、よくよく考えると、ちょっと不思議。誰もが過去の何処かを起点している。その起点は任意だからどうとでもなる訳で。だからどうということでもないけど、人は自分ですら比較でしか観測できないのだという観察。
なんだか悲観的な冒頭だけど、そういう方向にはいかないと思う。
さておき。
今日はなんだかいい感じだった。コミュニュケーションも取れたし、新たな発見もあった。
これは何故かと分析すると、昨日の演技性の観念と、職場の出勤人数が少なかったというのセット。情報量が少なくて楽だった。そういや昔のリーダー(アルバイトだけど)だった職場ではもっと人の機微が見えていたし、動きが悪かったら体調大丈夫かっていちいち聞いていたけど、今はそんなことがない。この世界はそういうことではないみたい。マネジメントじゃなくて惰性だろうって。
僕がそのとき思っていたマネジメントって、最終着地点が上手くいくように調整することで、付いてこれる人だけには流すけど、あまり成長させるみたいなところではなかった。刹那の人ばっかりがやってくる現場で、納期のためにはどうしたら良いかっていうのを調整。
いつもやんわりして、でも仕事はできて、いつも絶対見られているっていう感覚を抱かせるっていうのを中期の人にはやってたけど、1番邪魔だったのは、むしろ同じようなリーダー格とか、パートタイマーだったり。
まぁ、職種も違うし、マネジメントとかそういう領域ではないか。家族みたいな会社。
刹那で見ている訳ではなくて、経験則で集計している。
つまり、こういう標準に合わせて動かないといけなかったっていうのが駄目だったところ。
この前の面接も似たようなところ。もっと上手く装えたけど、装わなかったのは正解だと思っている。
演技は観衆のためにあるものだけど、したくないときにすることはない。
仕事で言ったら、賃金を提供してくれるのは会社であって、個別の社員ではない。個別に媚びたらなんとかなるっていうのはこれから変な話になってくるような。
この話はなんぞやっていうと、自分がしたい仕事の確認。
資本主義の勃興みたいなところの仕事じゃなくて、もっと有機的に自分を見てみたい。
さておき。
いつも、思えば遠くに来たものだって自分に対して思っている。
歳を取ったなっていう観念とは似て非なるもの。過去と現在を観測しているけど、それを俯瞰した視点がある。許すとか許さないじゃなくて、自分っていう物語の演劇を観ている人。そんな視点はないって思うかもしれないけど、証左として、今の自分より過去の自分が劣っているっていう観念はない。今ならもっと上手くできるかなっていうのはあるけど、上手くできなかった自分だって紛うことなき自分だし、捨ててはいけないもの。これを捨ててしまうと、他人にも不寛容になってしまう。
不寛容であることが良いかどうかは知らないけど、おそらく精神的肩こりになると想像する。
素朴な疑問だけど、肉体が衰えたことで自分が衰えることと等しいのかとか、自分の過去に対して劣等感を抱いているから若者に辛く当たるかとか。
もう少し抽象化した方が良いのかな。
人の本質って、肩書とか経験とか自己認識とかの外にあって、だいたいの人は自分の本質に届かないまま一生を終える。っていうフレーズが中山さんだったかの美学入門にあったから流用した。
おしまい。