硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

何分咲き?

買い出しに行くときに、最短ルートから外れて徒歩圏内の桜のルートを一通り辿ってきたのだけど、だいたい5分咲きくらいだった。7日後にはどうなっているだろう。ところで、なんで割じゃなくって分なのだろうという違和感。少し調べたところ、分と割はもともと全然違うところで使われていた単位とのこと。分は状態を示す言葉っていうのはなんとなく分らんでもない。日本語面白い。

 

違和感と直感も似ているような。

 

 

そういえば、自己実現って、心理学がオリジナルの概念だったなと。マズローさん。5段階欲求説だっけ。経営学の本を読んだ時にも出てきたし、この前浜松の友人と話した時にも出てきたのだった。友人はマネージャーを目指していて、研修でマズローさんの話がでてきたとか。

 

5段階欲求は、生理的、安全、所属、承認、自己実現とのこと。人間性心理学っていう言葉が出てきたのだけど、この心理学の本は読んだことないなぁ。臨床心理学とか社会心理学なら読んだことある。細分化するなぁ。

 

ということで、僕が注目するのは、5段階欲求ではなく、「説」の方。心理学の中でも一般的な理論にはなっていない、1つの有力説でしかないということ。社会科学が理論とか法則になる手順は知らないけど、あまり気にしなくて良いだろうっていうこと。

 

確かに、職場にやってきた人使ってマネジメントするときにどれくらいの欲求とエネルギーを持ってきているのかを観察して振り分けるっていうのは大事だろうなって想像する。でも、これをマズローさんに当てはめる必要もないだろうなと。振り分け易くはなるだろうけど、振り分け易いことが良いことだとは言えない。

 

この説に当てはめるところでは、僕の欲求は超越的な自己実現しかない。脳内麻薬の領域だろうけど、自我から外れていくと、時間を飛び越えられる。そのためにはコンディションとウォームアップが大事。

 

 

長々書いているけど、昨日の結論は揺るがない。

 

 

 

こういうシンクロニシティ嬉しいなっていうのが、昨日から読んでいる現象学の本が、自己認識について書いていて。

 

こういう古書って線引きがあるのが嬉しいのだけど、どの本も最後まで線引きがあったことがない。途中で飽きたのか持ち主が読めない事情があるのかは定かではないけど。

 

おそらくまだ心理学の範疇。

 

「自己認識というのもまた、自分を自分の犠牲にするところに成り立つからである」

 

 

僕はずっとずっと、こういうことを直感していた。

もともと自分はこういう特性なり個性なり属性みたいなことを決められない。これを自己表現不足だって言われることも多々あったけど、これも違う。あぁ、こういう風に見られているのだっていう他己認識はよくあるけど、この文脈で言うと他人が自分を犠牲していると言っても良いかも。

 

 

就活の自己分析を真っ向から否定するような話だったけど、自分はこういう性質だと決めてしまうと、それ以外の行為がとれなくなるっていう考え方。他の行為の可能性を自分で殺してしまう。これはこれでいいのかもしれないけど、こういう考え方で何が自己実現だろう。

 

 

これを踏まえて、一般的な意味の自己実現が目指す自分になることに傾注すること、だとしたら、何かおかしな一種の信仰のようにも思える。

 

死について!の話者をこの視点で分析すると、誰もがみんな自分に使命を負わせているように思う。でもこれでキリスト教がちょっと好きになった。使命がないと生きられない層も在るし、自己を一般化して一生を過ごす人も在るし、常識から外れたことが固有性を持つわけでもないし。

 

でも、どの層が一番考えているかって言ったら。

 

 

物理的なところから外れたついでに、音波は質量を運ぶっていう研究結果が出てきているらしい。けど、ある意味当たり前かなって思わなくもない。声は相手の体液とか脳を揺らすし、人間だったら、文字だって響くだろう。僕は本を読むときにはある意味楽器になっている。

 

 

こんなの景色を見るときでも同じ。観察することは観察対象から何かが移動しているに等しい。これを質量というかはともかく。

 

 

って考えていくと、世の中はどういう風に再構成されるのか。

 

 

おしまい。