硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

過密

酢の物が食べたくなったからきゅうりとわかめで作った。ここに蛸があれば完璧。烏賊でも良さげな気がするけど、なんだか違う。たこわさも作ってみたことがあるけど、いかわさだとちょっと違う。調理方法だと烏賊の方が圧倒的に優勢だったりする。しかし、家で海鮮系は鮮度的に高い。

 

さておき。

 

つぶやき場界隈を見ていると世界は11人違うものなんだなぁと思わずには居られない。ステレオタイプの抑圧から解放された場である分、余計に個人の固定観念が目立つというか。良いとか悪いとかではなくて肉体ありきの社会より少し精神世界に近いだけで、この延長がSF的なネット上の仮想世界なのだろうなというだけ。世界の見え方が人によりけりというのは、人は経験で作り上げた世界を壊すことがかなり難しいという証拠であって、ということは、国からすれば経験を制限すればするほど統制が楽になるということ。教育も近しいのかな。

 

個人的には人の個人的世界を垣間見られることがなかなか興味深いけど。ジェンダーロールと性自認フェミニストの緊張関係とか。生物的には男性だけど性自認は女性な人が女子トイレに入るのは是か否かみたいな話で、それを悪用する男性が居るから駄目だという論。難しいけど、男性性対女性性の二極化だったのに、自分の経験から外れた概念が出てきて価値観の崩壊になっているのだろうと。

 

ジェンダーロールって制度に規定された性別的役割だと思うけど、僕は幸いにもそういう押し付けみたいなのは家族に特に感じなかった。女性ばかりが年長者だった言うのもある。おじいちゃんは早くに亡くなって父親も亡くなっていて、家庭内で言うと、女性の恐ろしさの方が一番最初の自我に近い。だいぶ抑圧されたし。これを嫌悪と名付けるなんてできないくらいに畏れ多いみたいなところがある。でも、友達は男で一般的なジェンダーロールの人だったからなかなか大変。だから、どっちの固定観念も嫌だったみたいな土壌がある。

 

 

という流れで、食べ物の好き嫌いが多い人は人に対しても好き嫌いが多いっていう記事を見つけた。これはつぶやき場界隈で見つけたのではなくて、食の好き嫌いが何故悪いのかっていうのを調べていた流れで見つけた。偏食は栄養が偏るとかじゃなくて、自分の好きなものばかりしかなくなってうんたらみたいなあまり納得できない流れ。大人が好き嫌いしているのに、子供にだけ好き嫌いないことを押し付けてきた来たらそりゃあ子供ながらに嫌だろうし、この辺りのダブルスタンダードを子供はよく見ているという説。

 

んで、食の好き嫌いが人の好き嫌いにつながるのは、子供の話じゃなくて、子供のままの味覚で接続されている大人の話ならまだ分かる。子供が好き嫌い多いのは、生物として存続するための本能みたいなものだから、腐っているものを判別するために苦みをアウトにするのは自然だし、甘みはエネルギーに直結して一番大事だから甘いものが好きになるのは自然だけど、大人は味覚の要素も知っているだろうし、ある食材から得る味覚とか食感が好きじゃないっていうのは単なる好き嫌いで、自分の都合の良い人しか収集しないみたいな。

 

僕はいうと、食の好き嫌いはなるべくないようにしようとはしている。一応日本のスーパーに置いてあるような食材はだいたい食べられるくらいにはなった。あと、ベトナム料理おとか、知らない味覚とか香草とかも積極的に収集している。パクチーは最初トムヤムクンヌードル食べたときに受け付けられないって思ったけど、この生理的違和感は知らなかったからでしかない。

 

 

ということで、食の好き嫌いが激しいことが人の好き嫌いに接続する人は、感覚が幼いという結論になる。幼いは別に悪いことではない。人が向上するには幼さをどれだけ残しているかにあると思っていたりするし。人の良し悪しを食べてきたものだけで決めるというのは分からなくもない。経験も食べるものだろうし。

 

 

そうして、俗っぽいものからちと離れて。

 

 

表現についてちょっと考えていた。表現の自由じゃなくて、素朴な表現とか芸術表現とかのこと。自分の内面を示す言葉っていつ生まれたのだろうなぁって。感情表現が生まれたのはいつかという話。言葉の機能って、人のもやもやの輪郭をはっきりさせるっていうのもあると思う。喜怒哀楽とか、人の感情をはっきりさせた言葉だと思う。喜怒哀楽の言葉がなかった時代にもそういう現象はあったと思うけど、言葉にすると、反芻できるようになって、この自分の感情は本当にこの言葉であてて良いのかということになったり。

 

今思うと、僕は高校時代古文が結構好きだった。できたから好きになったのか好きだったかできたのかは知らないけど、今の言語からすると、言葉がかなりふんわりしている。心情の描写は現象から比喩ばかりだったような気がするし、「あはれ」に何個意味があるんだよみたいな。個人的にはやはり徒然草の序文が好き。ものぐるほしけれ、ってきっと感情ではなくて、なんだかそわそわして落ち着かない自分を俯瞰しているのではとか。別に当時はなんとも思わなかったけど、感覚的に合っていたからという気がする。漢文は逆にきっちりしていたから楽だったような。こういう視点でもう一回勉強し直したい。徒然草も意訳だと訳者さんが兼好法師の何を思っていたのかを想像して埋めている気がする。

 

 

最後

 

経験によって人は見えるものを変えることができるのだけど、変えられない部分もきっとある。というのは、試験の過去問を解くのじゃなくて、答えを辿るだけを今週で5周しようと決めたのだけど、この方法って、高校時代に自分が数学のテスト勉強でやっていた手法だった。勉強をやった過程を記録として残すのが宿題だったけど、そうじゃなくて、無心で辿るだけ。その時は手で書いてやっていただけだで今はもう少し洗練されているけど。インプットの手法として一番やりやすいものっていうのは最初に自分で試行錯誤しているはずで。

 

 

おしまい。