硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

人の定義

茄子の旬夏でよかれと問いつつも我が欲するは只今なりけり

 

ということで茄子が広告の品だったから、鯖缶とトマト缶とピーマンと一緒に炒め煮にした。オリーブオイルたっぷり目で炒めて、缶詰加えて、ほんとはコンソメ顆粒が良かったけどなかったから、ウスターソースと塩コショウで味付けしただけ。茄子久々で美味しい。あと2本残っているから残りはマーボー茄子にしよう。

 

あと、昨日スーパーで見つけた、やたら長い油揚げを水菜とレンチン煮びたししてみたのだけど、やたらと美味しい。一般的なのと作り方が違うのかあまり揚げ感がない。しっとりしている。

 

 

さておき。

 

今日は特にないなぁと思っていたけど、そうでもないか。色々ある。僕は高校時代世界史選択で、1番嫌いな授業といっても良いくらい。でも、哲学史とか文化史とか宗教史とかと繋げて収集するなら面白いだろうなと、今はやっと思う。日本史は戦争より文化に寄っているのかなと思うけど、どちらにせよ、勝者の記述が残っているような。旧約聖書メソポタミア文明とか、古事記飛鳥時代とか照らし合わせて取集してみたいところ。聖書物語も読書時間に読んでいる。作者が解釈したものを日本語化しているのだろうけど、バベルの塔のエピソードは随分ニュアンスが違った。僕が知っているのは、全世界が共通言語をもって神様に届くようなバベルの塔を建てることが神の怒りに触れたから言語が分かれたっていうものだったけど、この物語では、ノアの箱舟のあとに産めよ増えよみたいなところから、バベルの塔で全人類が住んでしまえばまんべんなく人が居ることがなくなるから言葉を分けたみたいな話だった。解釈としてはどちらもあるのかもしれない。

 

ここで思うのは、要は、テキストよりも解釈の方が大事で、解釈の広がりは時代とか環境の許容性なのだろうなと。嫌悪感も正義感も愛憎も、その人が生きる領域でこそ意味を持つ。

 

嫌悪感についての話は、ヨーロッパで過ごしている日本人家庭で醤油を弁当に入れて、学校で女の子に臭いから嫌いって言われたときに、先生がその女子生徒に、嫌いは違いであって嫌うことはよくないって教えて、泣いて謝ったという話。嫌いは嫌いで良いけど、それを表明することが駄目だという説を唱えていた。

 

あと、石田光成のエピソードもあって、上司の膿をなんでもないように飲んで立てたみたいなこと。生理的嫌悪感があっても現実化な振る舞いは別にすべきという流れ。

 

一見繋がっているなぁと思ったけど、僕の解釈は少し違う。

それぞれの時代の生きやすさっていう道徳の中での話であって、普遍的な話でもない。石田三成の話は、道徳的にすばらしいっていうより、嫌悪感より上司を立てなきゃならないっていう規範でも解釈できるし、これってその時代のヒエラルキーに従わなかったというだけという見方もできる。君主の一存で首が飛ぶ時代に道徳規範なんてあったものでない。

 

あと、素朴な直感として、差別が悪いものだってする観念自体が差別を醸成するっていうのはきっとある。だから、醤油の件では、素朴な違和感とか拒否感が悪いものだってすることは良くないっていうのは正しいとは思う。他の文化を排斥するっていうのは人の素朴な精神だし、色んな文化的表現が混在できているだけで日本は進んでいる。その素朴な嫌悪感を否定して、道徳的に皆仲良くできるみたいな感覚は仲良くできない人が悪いっていう意味を伴うから、ホロコーストの再来なのだろうけど。

 

大人が良いと思う情報に触れさせるべき論にずっと違和感を持っていた。だからゾーニングとかも良くわからんって。これに対する疑問を解消する本を見つけてしまった。発達心理学じゃなくて。発達自我学というもの。少し古そうだから、発展してないってことは都合が悪いから潰された可能性がある。それで見たのは、新生児ってかなり未熟に生まれてくる分学習能力が半端ないし、一定の学習があったとしてもしばらくしたらリセットされるっていうもの。

 

人間が人間たる所以は自我だっていうコンセプトの学問。で、自我とは本能の外にあるものとのこと。ということは、どんな情報に触れるかとか教育みたいなことは本人の自我を構築するものとしてかなり低いところにあるのではっていう気がする。一番は非言語領域であって、庇護感なのではと。庇護されていると思えるから反発できるのであって、それがまともな反抗期。僕は反抗期も少ししかできなかたなぁ。

 

っていう意味で、人に何かを教えるとかっていう時に一番大事なのは、制度に頼ることじゃんなくて、ちゃんと自分が自分として確立しているか、なような。言葉でどれだけ武装してもそれを発する人を見ていると思う。子供はそうやって生きるしかないから、拙いって見るのは疎いような。

 

持ち上げたからバランスを取るけれど、自我が自明だって捉えているような気はする。子供が自我のために諸々やっているのはそれ構築するためで、構築したあとの自我には学習性がないってことになりかねない。もちろん一般的にはそれでも良いのだろうけど、完成した自我でも流動すると思う。恋人さんは随分とかわいらしくなっているし。自我は内心の領域だからたやすく変わる。

 

自我を本当にコントロールできる人はお釈迦様くらいになる。

相手に合わさなくなれば僕もそうなるのではっていう妄想はあるけど。

 

なんだっけ。

 

文章を書くことがアウトプットになる論はどうしても採用できない。

だいたいの文章って、アウトプットされるための言葉に見えるから。そうじゃなくて、自分の内面の非言語の深海を文字として発見するなら分かるし面白い。

 

僕の個人的な話だと、アウトプットは瞑想とかまどろみとか散歩中に自分に収納されたものを点検するのが先っぽいし。毎日インプットしているのもあるけど、インプットされてきた過去は抹消する訳にもいかない。当時の感情なんかも思い出されるけど、自我にとって

の感情はあまり大事なものではない。

 

突き詰めて言うと、個人にとって感情って至上なものだとすれば、それに従ってくれる拒否されるか押さえつけないといけないものかみたいな話になるけど、その感情を投げた相手の感情まで考えると、なかなか自明ともいかなくなって、正解は固定観念とはいかなくなるという話。

 

最後。

 

歴史が芸術のある程度を抹殺してきたことから考えると、科学技術的なものも同じだったかもしれないっていうファンタジー。ロストテクノジー

 

 

おしまい。