硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

自由と迷惑

蕎麦を食べた。納豆と温玉でめんつゆにワサビを溶いたつゆ。ここに山芋か長芋があれば最高だった。でも、乾麺を美味しく茹でるためには三リットル以上の鍋で少量の蕎麦を茹でなきゃならないらしい。パスタは芯の場合はアルデンテが良いけど、蕎麦に芯が残るのはなんだかもそもそする。食文化は奥深い。

 

っていう流れで、蕎麦をすする文化は外国からは違和感があるっていう外国の方の個人的主張を一般化して、自分もすするのは嫌だ、こういう文化は変容すれば良いなっていうのがつぶやき場に流れていた。文化は当たり前だから従わない人は悪だっていう思想は悪いけど、自分の当たり前と違うことで排除しようとする思想もなかなかやばい。

 

悪いっていうのは、道徳的に悪いとかじゃなくて、そこに参加している個人を害するという意味。僕は社会的集団のルールとしての道徳は円滑な社会において大事だとは思うけど、個人的な関係においては網が粗すぎると思っているから、個人の問題を社会で括るのもおかしいし、社会の問題を個人と直結させることも不適切なような気がする。個人の集合が必ずしも社会ではないし。職場も一種の社会だと思うけど、その場の空気を決めているのはある力を持った個人だったりするけど、それを一般化して、どの職場もとか一般的な企業はこうだって考えるのは思考が粗いという意味。

 

今日も表現の自由について進めていた。性表現規制はほんと難しいと思う。チャタレー事件とか悪徳の栄えとか規制すべき性表現と当時の最高裁判所が認定したものも今や手に入るし、そもそも規制根拠が性風俗っていうよく分からないものだから、なかなか。ロジックが良くわからないから、知識として収集するのも難しい。例えば個人を性的に貶める表現だったら分かるけど、それだったら性表現を言うまでもなく名誉棄損罪だろうし、性的羞恥心が社会共通のものだっていうのも今や結構苦しい気がする。需要だって色々細分化されているだろうから、単に男用のコンテンツだという主張もできないし。

 

 

ともあれ、憲法上の表現の自由っていうのも時代によって変わってきているから、なかなか難しい。もともとは政治的な論評を封殺されないっていうところが中核だったはず。そこから、為政者の都合の良い表現だけお墨付きがあるってなったら情報が偏るだろうということになって、人のあらゆる行動の基礎になるのは情報だろうっていうのが現時点。要は、表現を規制されないところに根っこがある。自分にとって気持ち悪い表現が流れることは、ある意味正しいことで、それを規制してしまえっていう考え方は自分がする表現も誰かにとって気持ち悪いという理由で制限されることとセットになる。

 

つぶやき場みたいに私人がなんの後ろ盾もなく発する場ができたことで、どうなるのかというのは気になるところ。テレビが主要なコンテンツだった頃は、ニュースを見ることでしか外界の情報を知ることができなかったわけで、報道の自由は一般の人の知る権利の為に重要で、今もその重要性は変わらないのだろうけど、その頃でもテレビの弊害みたいな話はあった。報道機関の印象操作によって世界が変わるみたいな。あと、受動的に情報を受けるからコミュニケーション能力がなくなるみたいな。確かに考えようみたいな方向に向かう情報は提供してくれなかった気がする。今はテレビがないから知らない。ってなことを言うと、学校でも考えようみたいなやり方はほぼなかった気がする。どうやったらいじめはなくなるかみたいな作文を書かされた時のは考えるの範疇だけど、情報がなかったし、ないなりによく考えたなぁ自分みたいなことはある。ほんとうになくそうと思ったら、思想統制するとか、属性意識を持つように育てた親まで巻き込んで罰則みたいなことをしないと無理な気がする。

 

じゃあ、ネットが発達して、自分が思う当たり前が当たり前じゃないっていう情報が蔓延している今、受動的じゃなく能動的になって、情報の幅が広がったかっていうと、個人的にはあんまり変わらないという説。自分だけがそう思っているんじゃなかったっていうのは個別的な社会から救われるっていう面はあるだろうけど、能動的な分、同じだと思う、あるいは自分が肯定的に評価できる情報ばかり収集することになるから、世界の敷居はどんどん孤立する。

 

僕は生身の人間に同じだなーって思うことはあまりないから、同属意識を感じることはない。神話上の人物とかフィクション上の人物には結構あるけど。思想で括って徒党を組むっていう感覚がそもそもない。

 

という意味では、気持ち悪いものがあるから気持ち悪さが分かるっていうことは結構健全な精神を育成するのではなかろうかと思う。

 

ようつべを見ていた子供が言葉遣い悪くなったから見るのをやめさせたっていうのが少し流行っていたみたいだけど、言葉遣いくらいならいくらでも変化するものだから、なんとでもなると思う。かめはめ波を真似していたこととあんまり変わりがないような。

 

自我が確立している人ならだいたい分かると思うけど、自分の自我が何か1つの情報でできあがった訳ではないはず。人格となるとなかなか難しいけど。人格は根深くて、自我はその上澄みみたいなこと。

 

人の言動を見て、これは人格なのか自我なのかっていうのはなかなか判断が難しい。

 

ここで思うのは、子育てみたいな教育の話の時に、蔓延している情報が悪影響になるから無くして欲しいっていうのは的が外れていて、結局のところどんな情報があろうが子供は親というか最初の保護環境をトレースして育つということなのでは。言語なんて最初は分からないし、話せるようになっても言葉の観念も分からんし。僕の根っこは田舎の村社会にあることはどうしても否定できない。それで良いとできるのか、違和感があるのかっていうのが、接した情報量なのかっていうのも分からないけど。

 

属性で括るっていうのは基本的には脳の省エネだと思っているから、そうやって節約して人を捉えるのは悪いことではないのだろうなと思う。というか世界の限定か。限定した方が良いとも思う。

 

最後。

 

山岳関係に携わっている人をテーマとしている漫画を読み進めているのだけど、なかなかグロい。滑落した人は原型を留めていないと想像しているからこれでもやんわり表現しているのだろうけど、なかなか。ここで、そんな危険なことしなければ良いのにっていう感想は現実的だけど、それを許そうっていうのが現代社会。個人的にはリスクが高すぎてクライマーは無理だなと思うけど、それでも他人の自由は制限できない訳で。1つの例を挙げると、登る山を前にして知り合った人と飲んで、別々に登っていたら、数日後にその人が落ちてきて、手を伸ばしたかったけどひっこめたというやつ。

 

難しいけど、あえてリスクを負うことも自己決定の1つだろうと。

そういうことで自分を確立するというのも自己決定。迷惑っていう観念が顕在化される領域だと思うけど、潜在的な迷惑はどこにでもあるしなぁ。

 

僕は実家の裏山の山頂(標高400なんぼ)の景色が好きだし、石鎚山に登るのも楽しかったから、生身で自然に挑む快感は分かる方だと思われ。ただ、肉食獣が生息しているとか、足を踏み外せば即アウトみたいなところまでの覚悟はない。

 

いったい何の話だったのだろうと思わなくもないけど、おしまい。