公的私的社会論
叱られることが増えた。
あまり慣れていないからあっぷあっぷと精神的に溺れているのだけど、少し離れて見ると、次のフェーズに移行したと解釈できる。理不尽な怒りを投げられるっていうことには慣れているのから痛い。でもこれってメカニズムが全然違う。けども、人そのものを修正するというか否定するという意味では似ているから、人格を否定されたように感じてしまうのは、学習の結果だろう。
ここは調整していかないといけない。昨日の日記に書いたかと思うけど、まさに今日そういうメールを頂いた。こういうところに重点を置いて下さいって、自分の為に時間をかけてくれた指摘。叱りとは相手を自分に都合良く動いてもらうためではなくて、相手にテコ入れする行為だと。見放してしまえば、都度指示するだけで良い。
これらの改善策としては、日々時短ルートを開拓していかないといけない。
そのうち全員のノウハウ吸収してやろうと思っているから、もっともっと考えねば。
多分次のステップは、他の人に頼る所。
例えば電話応対を投げてみるとか、コピーの仕事をスルーするとか。一番は煩わしいと思われるくらいに質問しまくるところか。
とここまで書いたけど、解釈の振れ幅っていうのは楽観100%から悲観100%まであって、どこを選択するのかってことしかない。例えば、この指摘だって僕にとってはありがたいけど、単に気に食わないっていう感情を冷静に言語しただけで、自分は嫌われているのかもしれないとか。
んで、この評価の選択は経験則に寄っているということ。
これってもう少し考えると、他人の言動をどう読み取っているかっていうのが、自明なことではないっていうところに至る。
僕はどうだろうかっていうのは結構書いているはず。言葉を文字通りに捉えないっていう天の邪鬼さ。とは別に、自分の衝動を投げてさぁどうだって相手に任すところもある。試していると捉えられても仕方がないけど、でも実際のところそうやって選別してみないと分からない部分もあるだろうと。
嫌われも良いやっていう精神が根っこにあるから。
ってことは、これを仕事に適用すれば良いじゃんってなるけど、公的なものさしと私的なものさしは違う。
今日は行為論の話。
メタ的な話だけど、アクセス全然増えないけど、その分読みに来ている人が誰かって想像できて良い。別に毎日は見ていないだろうけども。
そもそも、これを読む意味がないと思っている。
何か有用な情報を発している訳でもないし(レシピはちょっとだけ有用かも)、これを読んで僕のことが分かるかというと、そんなことも全くない。有用な情報の定義はちょっと気になるところだけど、さておき。
行為とはなんぞや。
一番の中核概念は、体が動くこと。くしゃみとか寝返りとか生理的な反射も入ってくる。
けども、じゃあ自分が動いていると実感するときの実感は違うだろうっていう話。
で、ここで社会学的な行為論を借用する。
曰く、行為とは他者っていう観察者を前提とするものだって。
ややこしいっちゃややこしいけど、他者っていうのは個人もあるだろうけどもっと広く社会みたいなものでも良い。この言動は世の中からどう見えるだろうっていうことが前提とされているということ。
で、私的なこととされている三大欲求もこういう社会的、文化的な意味を離れられないっていうのが社会学的視点からの考察。食欲とか性欲もしかり。
刑法学だって、犯罪行為の行為とはなんぞやっていうの社会的に意味のある身体の動静としていたりする。
社会って漠然としているからもう少し分かりやすく言い換える。
規則、ないしルール。
この行為をするのはこういうルールがあるからだって意識している人はあまり居ないだろうけど、だいたいの人はこうやってがちがちになっている。でもこれにもメリットがある。ともかく楽。ルールの場っていうのは法律みたいな広いところから職場みたいなごくごく狭いとこまである訳だけど、そこに馴染んでしまえば居場所が貰えるっていうご褒美もある。
やれやれ。
こういう小難しいことを語る人の往々の傾向として、自分の見解を語らないっていうのがある。トレースするのは良いけれど、真似ぶ後には自分のルールを創らねば。
っていうことで最後。
僕が行為とするものは、大枠の社会的な範疇で、その人の社会から離れたことをする瞬間。これは翻すと、自分が思っているその人の枠がぶっ壊れること。この瞬間が楽しい。
刹那主義的行為論。こういう意味で関われる人は楽しい。
刑法が言う社会的に意味がある動静って、結局惰性だろうって思っている。
あぁ、共通項っていうのも惰性の観念なのか。共通項も惰性よりは悪くないけど、感度は若干鈍くなるかなという感じ。
吸収したい人と関わりたい人は全然違う。
まれに重なるけれど。
おしまい。