硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

境界領域

炒める時にわざと焦げ目を作るように炒めたキャベツは香ばしくてなんとなくバーベキュー感がある。実地だったら多少行き過ぎても、自然とか空気とかの調味料でなんとなくなるけど、ガスコンロで1人分作るとなると許容範囲は結構狭くなる。

 

そうして、今日の昼ご飯は2人分作った。有限のメニューの選択。ある食材の中で二人分を考える。うどんが一人分、常備菜のぜんまいきんぴらが残っていて、卵としめじと椎茸と豆苗がある。そこで、米を一合炊いて、ゆかりと白ごまの混ぜご飯にちょっと風味付けのごま油。うどんも使いたいから主食のもう1品でキノコと豆苗のあったかいうどん。特に隠し味みたいなものはないけど、ほんだしと醤油と砂糖の配分は一過相伝くらいな秘伝ではある。次作る自分にも承継されないし。そうして、これではたんぱく質が足りないから、残りの食材を使って卵焼きを、何か月かぶりに作った。味付けは塩と砂糖と白だしを数滴で油はごま油。配合バランスは知らない。卵焼きは卵単品の料理の中でトップだと思う。人の手をかけないと作れないから。ともあれ、ランチで4品なんてなかなか贅沢ではあると思う。

 

美味しそうに食べて貰ったけど、僕はこれが嬉しいっていうより、こういう領域に居てありがとうと思った。厳密に言うと、個別的な人間関係において、相手の為に作ろうとする過程をくれたこと。相手の嗜好はどうかっていうのは一緒にご飯を食べていたらなんとなくまでは分かるけど、本当のところは分からない訳で。結果としては自分が食べ終わるより早く食べてしまったったというのはあるけど、それはまた別の話。

 

 

というところで考えるに、料理って、自分が食べるためだけの領域は思考と、他人に振る舞うっていう意味では表現と近しいものではなかろうか。生命維持のためとは今や別領域。サプリとか点滴でも生命の存続だけならできる時代、食も趣味の領域に移行しつつあるし。

 

ところで、なにやら直に接するところでも自分はどうやら変わったらしい。何が変わったかを言語化することはできないらしけど、僕もあまり言語化はできない。これは言語に対する過剰な信仰と発話者からの文脈を読んで現実化しろみたいな社会性の名残りだと思わなくはない。一応は、断捨離して浄化されたからみたいなことにしたし、これは一応近しいことだけど、要は、属性から独立した自己を承認したことで、外から見たら自信に見えるみたいなところではないかなと。拒絶に対する不安とか想像力は従来通りだけど、だからといって、自分の中身は揺らがない。というか揺らぐのが自分だからいちいちダメージを受けても揺らがない何かがあるっていう不確定的な確定的な人格を承認したところ。ここの承認は社会的でもないし倫理とか道徳的なものでもない。

 

 

ということで、表現の自由の話。

 

嫌悪感の話はつぶやき場で盛り上がっているのだけど、少し飽きてきた。

 

嫌悪感の共存のために嫌悪感自体を道徳的に承認するっていう命題は、要は社会的マナーの話であって、直感として分かる人なら分かるし分からない人は一生分からないものであって、話し合いで埋まるようなものではないというのが自説。嫌悪が行動ないし態度に直結するっていうのが一般的で見方である世の中だったら、嫌悪自体をなくそうというのが自然な風潮だし、直結しないっていうのが大勢になれば嫌悪自体は承認されて良いってことになる。もっと言ったら、本当は直結してないのに直結してるっていう美談が旧世代の価値観なような。

 

これで言うと、何か公に表現している人は、何某かの感情から発しているっていう推定になる。例えば見られること自体に価値を置いているとか、同じようなものさしを収集したいとか、肯定的評価をされたいとか。信念なく発している人がほとんどに見えるソーシャルメディアで発していることを子供に見せられるのか、みたいな話。

 

多様性を承認するって言ってしまったら、かなり厳密な自己統制が必要になる。

嫌悪感の共存の命題は、少子化の先にやってくるのは移民だっていう射程まで含んでいるような気がするけど、ほんとのことは分からない。

 

こういう倫理的な側面で、ヘイトスピーチに対して徐々に規制が広がっていることと、表現の自由に含まれる芸術について。思想に公権力が介入したことで芸術が殺されてきたことは、あまりおおっぴらにはならないみたい。おそらく対象が「人」ではないからだと思うけど、人の世界は自分の世界の視野であって、そういう世界を広げるためのものが芸術の最初だと思っている。厳密にいうと演劇が一番担ってたっぽい。

 

ヘイトスピーチの定義って、一番広く言うと、属性に対する差別的表現みたいなことらしい。

国際的には規制すべきだっていう風潮だけど、なんとか日本は守っている。条例も大阪とか東京でできているみたいだけど、そのうち憲法違反の判決が出るような気がする。

 

これって、フランスではTwitterで発した人が統制されたらしいけど、こうやって狩られることが人として進んでいるのかどうかという話。属性で自分を括らないようにするのが最終地点なのでは。ただ、かなり孤立することになるけど、孤立が悪いことではないっていう承認があれば問題ないような。もちろん、自分を属性でしか捉えられない人は自己観をぶっ壊されることになるけど、マジョリティーがなくなることが差別をなくす一番手っ取り早い手段だと思う。どういう文脈であれ属性の威を借りれなくなったときに残ったその人はどんなものか。

 

っていう人格論とは別に、芸術と表現規制の話。

 

芸術っていうには表現物だけど、社会的な背景が不可避。哲学の最初の方にある人は芸術は人民が堕落するから要らないって見解を示していたところから言うと、残ってきた古典的な芸術は、都度都度の社会で必要ないっていう一般的ルールから外れて残そうとした意思の系譜があってこそ。古典が好きなのは、この部分もある。

 

日本で言うと、残っている文豪の作品って、個人的なことを問題としつつも為政者に対する風刺は読み込まないと分からないっていうくらいでしかできなかったものが残っている気がする。外国だとガリバー旅行記もそんな感じなのか。現代でいうと伊坂さんは社会の巨大さを語っている気がする。

 

という感じで、芸術分野って、表現の自由の規制と離れているようで一番敏感な部分だったりする。今のところマジョリティー言葉狩りのところにあるから大丈夫だけど、ヘイトピーチが一般的に規制するようになれば、差別用語とされているものを表現に取り入れようと考えて創ろうとしたとしても規制されるから迂回しなければいけなくなって芸術の自由が阻害されることになる。

 

もう一つ致命的な問題は、ヘイトの部分が時代とか環境とか社会によりけりということ。

もともとは、マジョリティがマイノリティの属性に関しての差別的なものさしに基づいての表現だったのだろうけど、日本で言ったら、自分がマジョリティだと思っていたらマイノリティだったみたいなことは将来ままある訳で、表現規制論はやめといた方が良いとしか言えない。自分が見たいコンテンツが回りまわって消えることになる。

 

 

最後。

 

つぶやき場が飽きたっていうのは、公に語れる思想が自分には成り立たないなっていうところ。もちろんここだって公だけど、自分の物差しを他人にこれが良いよなんて言えない。だって、僕のものさしは僕が四半世紀以上構築した結晶で、これを表面でなぞらえるのは無理だし、なぞりたいと言われても無理だし。かといって、これで人を下げるということにはならない。他の人が積んできた年月とは質的に違うから。

 

 

ただ、お互いの年月を収集したいっていうものさしになると話は違う。

そういう関係だとぽろぽろ積んできた知識が出てこられる。僕は知識を自分の内面に向かわせているから、知識が誰かよりあることで他人より優れているとはならない。これは経験も然り。

 

最期の最後。

 

日記だって一種の表現物だけど、いっぱい読者が増えたら嬉しいことにはならない。冒頭の料理の話と一緒。僕の根本的な人格的欠陥は顕示欲がないっていうところにあるような。私的関係では別だけど、どちらにせよ、顕示欲って何か苦労した返ってくるっていう疑似お金みたいなとこにある。反応こそ価値があるみたいな。

 

だから僕の日記ってどれだけ苛烈っぽいこと書いても誰もやってこないんだろうなと。Twitterだと、自分で見るアカウントを決めないとどんどん流れて行って彼方に行ってしまう訳で、自分とそぐわない見解を追うっていうのも自分がその世界を選んでいるから同列と言っても構わない。世界を選ぶっていう感覚も分かる人しか分からないという。どんなだって少なからず選んだところはあるだろうに、それを受動に捉えて悪い部分を他責にする。

 

信念不足という説もある。個人的には信念なんてなくていいし、他人に信念を求める信念なんて割とやばい。信念って、自分のごちゃごちゃした矛盾を無理やり一括りにするもので、自分に使うことすら不適切なのに。

 

もちろん、それで良いっていう信念をちゃんと持っている人に文句はない。

信念とはこういう文脈でこそ使うもの。

 

おしまい。