硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

何処から何処まで

 

母から荷物が届いた。ちょうど一粒残らず米を使い切ったのが昨日でナイスタイミング。まぁそれは良いとして、乾燥ぜんまいも送ってくれた。祖母はそんなものは帰ってきたときに食べされば良いだろうって言ったらしいけど、息子は毎日弁当作って挑戦しているのだ、って断行的に送ってくれたらしい。ありがたや。

 

一晩水につけて戻してから炊かないといけないらしい。炊くっていうのは方言というかある地方の調理法の言い方なのだろう。煮るとほぼ同義なのだけど、たぶんニュアンスに違いがある。調味料は変わらない。そう言えば思い返すと、時々水に使っている食材があった気がする。餅とか。

 

ともあれ、山菜類は試行錯誤の結晶だと思う。食べざるを得なかったのか、食べたかったのかっていうのは判断に迷うけど、個人的には後者の説を推したいし、そうでなければ残らなかったと思っている。

 

 

 

さておき。

 

精神的栄養の話。

 

死生観って通常の会話で必要としない。だいたいの会話はうつろう刹那的な表面上のネタで事足りるし、固有のものだから誰かと共有できるものじゃないし。固有だからこそ美味しいのだけど。

 

認識で世界が変わるっていう話をしたけど、死っていうのは認識の外にある。

ノルウェイの森で、死は生と表裏じゃなくて繋がっているものだっていう感じのフレーズがあったような。確かに繋がっているけど、人が死を考えるとき、どうあっても生から観測した死っていう観念の話になる。痛いのが嫌だっていうのは典型的。

 

なんだろう。自分が体験したことがないものだから、必然的に客観的になるってことでいいのかな。他人の死の経験値でしか思考できない。理想の死っていうのも不思議なもので、主観的だって当人は思っているだろうけど、他人からどう観測されたいかっていうことになりそうな。

 

死は客観的にしか観測できないけど絶対値だから何か歪むのかな。

歪みこそ人の真骨頂。

 

 

ちなみに僕の理想の死は死に方はなるべくあっさりで、僕と接した記憶を皆失ってくれると良いなって思っている。さっさと自分の生活を重視してくれって。それでも、死ぬまでにタイムラグがあればできる限りありがとうございましたって言っておきたいって想像している。もう通信経路がない人にも魂だったら伝達できるだろうか。跡を濁さず。

 

忘れたくないって言われても、そうなってしまえば気づくことすらできない訳で。

日常的に流れるニュースでの誰かの死と同じ。

 

人間味がないこと。

これを鬱傾向だと言われればそれまでだけど、本当にそうなのかって疑問。

 

 

まぁ良いや。

しばらくご飯には飢えないみたい。

 

そう言えば、仕事はやっと正式に期間満了で終わることが決まった。

にもかかわらず、なんだかクリアになっている。

 

筋肉の人が答えのない仕事を回してくれたっていうのも1つ。

だいたいの考えろっていう指導って、指導者の中では答えがあるしさらに言えば別に思考過程なんてどうでも良くて結果を出せっていうところ。思考過程まで聞き取りするなら良い指導者の気がするけど、現実の社会はあまり知らないので。

 

そうやって調べて組み立てて報告したら助かりましたって言われて、なんだかすっきりした。これは面接に使おう。笑

 

でもなくて、考えると詰まるって袋小路になるって観念は、きっと考えても何も現実化しないとか意味がないっていうところにあるのだろうけど、本来の考えるはもっと客観的なもので、そうやって考えることは栄養にしかならない。

 

 

最後。

 

世界は窮屈だっていうのがだいたいの共通認識に見えるけど、観念って流行と一緒で循環しているように思う。歴史で淘汰された情報がいかほどあるかは分からないけど、今度のものさしはもっと開放的になるような。

 

他人に譲ることが自分の利益になるっていう観念が戻ってくるといいな。

情けは人の為ならず。

 

 

こんなにいい感じで終わっていいのだろうか。

ということでエクストラ。

 

僕の理想の死があんなことになっているのは、自分が誰かに何かを与えたっていう充足感がないから。与えてもらっているものしか計量していないっていうのもあるし、与えたものがあったとしてもそれはばら撒いているだけだから、それを自信として対価にしていない。

 

なんだっけ、アイデンティティとは諸々の矛盾した自分を統合する力みたいなのが命題コレクショにあった。

 

僕は統合する気がないって決めてしまう方が良いような。

 

 

おしまい。