硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

 

ともあれ。

 

文字通りなんて厳密に考えると在り得ない。

伝わらないことが悲しいとかもどかしいなんて感情としては無駄で、本来は伝わらないことが当たり前。

 

 

今日上司に、メールで支持されて間違えて、この指示はこうとしか読めないって言われた。

個人的には固有名詞がブレてて読めませんっていう感じだったのだけど、こうとしか読めないって言えるのも凄い。ちなみにこの人のことは個人的に好ましくなっているから、大丈夫。

 

コピーしたのを、これ読める?って高圧的にやってみたマッスルより全然良き。

いや文字は読めますけど、斜め具合が気に食わないならそれはそう端的に指示してくれたら伝達できるのでって。

 

 

感情込みで言われたほうが残り易いっていうのは分からんでもないけど、そんなことはない。

 

 

喜怒哀楽の怒って、どういう意味でも、感情は独立している。誰に対してもってできない抑圧されているからそうなっていう怒がほとんど。今やきっと公然に怒り狂ったら発達障害認定だろう。

 

 

文字通りで言ったら、怒りは全然文字通りではない。虫の居所が悪いからそうなるだけのとばっちり。怒りの態度はともかく、怒りを言動するのはそう。

 

そういえば、恋人さんはいつも叱られた子供のような顔をする。

全然開放されていなさそう。

 

 

 

そうそう、本題は、文字通りなんてないっていう話。

 

だいたい人って言葉を尽せば人に自分が伝わるって思っているって想像している。

それで生活できているし、問題と思わない人は問題ない。

 

 

けど、そもそもこの言葉って本当の本人なのかって。

 

 

アカウントごとにに自我がある、で良いのでは。

 

デメリットは、自我が保てなくなるところ。

昨日の日記は自分が書いた言葉で思いの外自分で悲しくなって大変だった。

 

 

っていう意味でいうと、言葉には記号として使うものと、固有のものとして遣うものがあるような。

 

 

僕の観念では、固有の言葉が1番大事。

 

 

おしまい。