硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

自を革命するためには

 

 

ネットでタイピングの訓練ができるやつを1ヶ月前までやっていた。そこには。とか、がなないからあまり実践的じゃないと思ってやめたのだけど、ここ一週間くらいでまた再開している。指の運動にはなるし、ぽ、とか、ーとかミスなくやれるようにならねばと。そうして、最高値出たわと思ったら、前の自分の方が点数高かかった。今日やっと越えたけど。それでもやっぱりミスが多い。小指が不器用なのと左手の人差し指が押す範囲が把握できていない。

 

そういえば、思ったけど、回数と時間はちょっと違う概念だなと。

確かに、回数をこなすためには時間はかかるけど、時間をかけるだけで回数が増える訳ではない。時間からは少し切り離された概念。回数は時間を消費するだけではなく意思も使う必要がある。

 

さておき。

 

 

今日は髪を切りに行ってきた。

指名制度はないみたいだけど、同じお姉さんに切ってもらえた。きっと担当制度はあるのだろう。マージン付けてもいいくらいだったからありがたい。

 

他の人はヒゲがダンディズムだったり、見ているとやたらと会話を振っていたりして、疲れそうなのだけど、この人は会話のリズムとか量とかが心地よい。個人的にはシャンプーだけしか許されていないお姉さんの洗髪も好き。かなりごりごり頭皮を刺激してくれる。

 

今日は一人で出かけるとか、年始の初詣の話とかをしていた。

どうやら彼女は厄年らしく、来年の初詣を何処に行こうかみたいな話。個人的に寺社仏閣フェチだからもっと盛り上がっても良かったけど、人が多いところだと一人ひとりに時間をかけられないだろうってアドバイスしたら、今年と同じく近所のところに行くって言っていた。寺社仏閣には相性があるから多分それで良いとは思う。

 

でもなくて、なんで言いたいことをセーブするのだろうって思っていた。

他の人はどうなのだろう。セーブする必要がないっていうのはどういう状況なのか。

 

例えば今日のお姉さんとの会話でも、綺麗なグリーンのグラデーションで髪を染めていたことも気付いたけど言わなかったし、一人で映画を見ることも良いと思うみたいな評価も発信はできない。

 

発信をしないっていうのは外から見れば分かっていないと同じ。

っていう意味で言うと、世界はある程度恣意的にコントロールできるとも等しいのだけど、何を警戒しているか。

 

興味を持たれるって、単に評価が高いよりもっと喜ばしいものみたい。

僕は自分に興味を持ってしまった人に対して大丈夫かこの人くらいしか思わないのだけど、喜怒哀楽であえて表現するなら喜だろうっていう水準。

 

こういう言動が禁忌なのだろうなって思ったことはある。

単に興味のまま会話していたら中学生時代にやたらと執着されてしまった。その人は絶賛幸せな生活をしているようで何より。

 

これは別に恋愛感情みたいな異性間だけではない。

同性間でもありうる。人は他人からの打算がない興味を求めるものなのかしら。

 

 

打算。

買い物行ったら、小さな女の子とやたら目線が合った。微笑み合ったりして。ただ、子供は純粋だって言うけど、僕の評価では、純粋にあざとい。自分が可愛がられることは分かっている上でそう振る舞える。大人もあざといけど、ただ熟練度が上がって見えにくくなっているだけじゃなかろうか。

 

あざとさ繋がりで、年末年始の選択肢。

 

今日母親から電話がかかってきて、もうお婆ちゃんには帰ってくるって言っちゃった。でも無理はしなくて良いよって言われた。そう言ったら、こいつは戻ってくるだろうっていうあざとさがある。

 

もう一つ、友人も話したいことがありすぎるわーみたいな餌を巻いてくるのもあざとい。

 

 

世界はみんなあざとい。

 

 

最後かな。

 

だったら僕もあざとい。

基本的にはセーブしているけど、酔っているとあざとくなる。

このあざとさも、別に性的欲求を満足させるとか現実的な生活支弁とかでもなく、単に自分の興味のためだけ。その先に何の時間軸もない。

って分かっている人には結構自由だなって思う。

 

僕の不自由さは、人にあまり過剰に好かれないって所にある。

自意識過剰だったら良かったのだろうけど、いや、自意識過剰にしておこう。

 

結局のところ、誰も言わないけど人は誰かを代替できるようになっている。

だからこそ反映したとも言えるし、だからこそ寂しいとも言える。

 

温度と感情の話を入れるつもりだったけど、どうやらここまで。

 

 

おしまい。