理解度
ぐだぐだしていたし、読書時間もなかったけど、いろいろ考えていた。
ご飯は、小松菜と豚こまのやきうどんと、アボカドとかいわれ大根とクリームチーズのポッカレモン、塩コショウ、醤油1たらしあえと、大根とキャベツとささみのサラダ。
昨日のぐだぐだ日記で固有の言葉って観念を出したけど、固有の言葉っていうのは、別に僕の中に在るわけではない。きっとアカウントごとにしかない。
自分1人の時が1番自分かっていう問題提起すら浮かばない人には何の意味もないことだけど、今日はこういう思考。
1人のときのアカウントは結局誰かと関係して持ち帰ってきたものの寄せ集めでしかない。だいたいアカウントを流用して使っているとあまり分からないと思う。統一的に自我を把握できからメリットもある。この意味が分かるとアカウントが分裂する。
持ち帰りで言うと、自分は本を読んだり、勉強とかをしたりしている時に、やっとここまで理解できるようになったのかって思う。これは何かを集中していただけでは出てこなかった。
自我が芽生えた時の最初の方に学ぶことって、共通認識と、自分に考えが及ばないことへの思考の省略。この時点では言語として考えている訳ではないけど、生存するためのエネルギーを使うことには変わりはない。
自分の外にあることを理解する必要なんてなくて、ただ安心できればよろしい。
僕はもともと何かを取り入れるときには思考停止してまるごと食べるみたいなことをやっていたけど、理解っていうのは、食べながら吟味できることだろうなって。新しいことをするときは考える前に実践するしかないっていうのも1つの真理だけど、実践しながらそうじゃないことを思考することも大事な気がする。例えば、相手はどういう真理でこういうことを言ったのだろうみたいな。
他の人はどう生きているのだろう。
ともあれ、一般的には考えるっていう観念はきっと行動という現実化に直結しているってことなのなのろう。だからいかがわしいことを考えている人の文面を見たらこの人はそう行動する人だって思うし、言葉の上っ面でしか判断できない。
仕事で言ったら、挨拶とかメールの冒頭にお世話になりますっていうことを書かなきゃいけないって無駄でしか無いように思う。でも、そういう儀式がないと相手を把握できないっていう不自由さ。
やれやれ。
個人的なアカウントでの疎通論。
疎通っておそらく主語で判断している人がほとんどだと思う。
「自分」の言葉が伝わるあの人との関係は正しいのだって。
記号で言葉を使うならこれで良い。
ただ、記号の外も当然含んでいて、では、当人が相手の言葉を汲み取れているのかっていうと、きっとそんなことはない。
僕の疎通論。
相手に言葉が通じたのは、自分の言葉が適切だったのではなくて、相手が汲み取ってくれたから。主観的には相手が汲み取ってくれるために自分が言葉を変えたってなるのだろうけど、この次元は記号論の話。
記号的に言葉を使っているか、疎通的に使っているかはだいたい分かってきた。未だにだいたいだけど、人って暫定でしか無いし。
意味分かるかな?
要は、自分の次元でしか判断できないことってことは、相手と疎通しているのではなくて記号を交換しているだけ。
疎通は言葉の交信ではなくて、観念の交信。
では、また明日。
おしまい。