観測点
ピーマンとサバ缶のレンチンと、厚揚げとエリンギの卵炒めと、大根サラダと、昨日の残り2品。栄養価高め。幸せホルモンを生産するには腸が大事で、腸には発酵食品が良いらしい。
ヨーグルトと納豆は毎日食べているけど、どうも充足感というのが分からない。充足感は精神ではなくて肉体と繋がっている気がする。肉体としての脳から来る充足感。
確かに変な夢見たけども。
さておき。
昨日のベルクソンの閉じた社会と開いた社会の命題を見た。ベルクソンさんの残している文章はもっと読みたいところ。存在と時間は一応読んだけど、自分の言葉にできるほどは消化していない。閉じた社会は蟻塚みたいなものらしい。あくせく働き蟻をするのではなくて、社会の秩序に無意識に抑圧されるという意味。人間には知性があるけど、その秩序がどこから来ているかどうか分からないほど強制力が強い、みたいな。
開かれた社会は、原理的に全人類が対象になるみたいだけど、どうやら宗教の話みたいだった。宗教に心酔している人ではないとそんなことは観念できないだろうっていう時代だったのかも。
現在でも素朴に考えて、なんでもしていいしできるよって言われて世界平和を願える人なんてきっと居ないだろうし。自分の肉に直結していることしか選ばない人が多いはず。例えば大富豪とか、酒池肉林とか。
だから、今の世の中が窮屈だっていうのが共通項だとしても、自分が窮屈だから世の中がそうだっていう解釈と、自分は別としてそうだっていう解釈では過程が違う。
事実。僕は真実と混同するから現象って呼ぶのだけど、現象は変わらないとしても現象に対する解釈は変動する。
仕事で言えば、割とスッキリ働けたのだけど、なんか変だなって思うことも多々ある。
スッキリ部分は、何かよく分からないけど自分の声に張りがあった。張りがあるときは自分が元気な時っていうより、他人のことがどうでもよくなっているとき。そういう方がうまく回る。
変だなって思うところは、視界が拡がってきたからだけど、電話応対が遅れるんじゃなくて遅らせて他人に回しているっていうのがはっきり分かってきた。そりゃあそういう雑務に対応しなかったら作業は早く終るよなって。
もう一個は、ミスの話。
どれほど完璧にしないといけないんだってなってたけど、んなことはない。ということは、何がよろしくなかったのだろうって。一緒に仕事したくないって思われた、それなら分かる
。得体が知れないもの。
最後。
相変わらず喉には詰まった感があるけれど、それは、言いたいことを言わないでおいている関係があるからってことだろうなと。構造的に言えないなら別にそれは構わない、はず。
拠り所は別になくてもいいけど、何処かに客観的に観測してくれるところがあったら良いかなって思う。主観的に観測されると相手の主観に流れてしまうし。
ただ、量子論も言っているけど、こんなことはありえない。
いや、別に元気ですよ。
おしまい。
漂白
サラダ美味しい。本当はもっとカリカリにしてクルトンっぽくしたかった厚揚げのトースター焼きと大根とキャベツのマヨ青じそ。
さておき。
日記を書くのは頭の整理になるという説もあるけれど、個人的にはどんどん社会離れしていくように思う。生活離れと言っても良いのか。観念の好感としての疎通なんて稀にしかないのだから、記号の交換の方が生活としては大事。
ミスが2つあったのだけど、有り得ないミスが1つ。その理由も分かるし改善策も分かるのだけど、結構危なくなってきた。前もこういうことがあった。まだ違うのは、もっと生活から壊れていたこと。遅刻が連続したり通常の自分では本当に考えられないレベル。でも、別に何も壊れなかった。結構過去には学ぶべきところはある。評価が変わるところは、仕事の外にはない。きっとその集団の最低限を壊さなければなんとでもなる。
もしかしたら、今の職場に鬱傾向であることがバレているのかもしれない。
僕がここで仕事ができていないのは、基準が多すぎて乱反射しているところにあると分析している。誰も聞いていないところの電話応対の方が基準減ってまともに会話している。
そもそも最大公約数が分かっていないのは確かだけど。
そもそも大阪が合ってないのではなかろうかと思わなくもない。
というか、どこにも合っているところはないような気もする。これ、自己否定じゃなくて、素朴な自己分析。
自己肯定感がない人の典型みたいなのが、ボーイズ・オン・ザ・ランに出てきた。他人の幸せが肯定できないし、少し近くなった人っていうのはずっと自分に重きをおいて欲しいか
ら、注意を引きたがる。要は、他人に肯定されないと自分を肯定できないっていう意味。
でも、こういう傾向はまだマシかなって思う。結構そういう人と接する機会があったけど、ちゃんとした保護者ができればきっと安定する。ちゃんと自己肯定できている人とこれは地続き。繋がっているからメンヘラみたいな言葉が創られたのだろうし。
問題は、他人に肯定されたところで自己肯定に繋がらない層。
そんな層はほとんどないのだろうけど、居なくもない。
ところで、集団の定義は3人以上だって思うけど、どうだろう。
またまた出てくる社会学命題コレクション。
なんだっけな。
全部引用するのは面倒だから、ざっくり引用。
どこの集団に属するかっていうエネルギーは個人には限界があるから、何処かにエネルギーを使ったらその分他の集団へのエネルギーは消費しなくなる、みたいな話。
要は、自分が重視している集団以外には省エネするのが人間っていうこと。
素朴に考えてもそう。集団に属していることで定期的にエネルギーを提供しなきゃならない。
重視とかエネルギーとかも、よくよく見れば観測値の話で、きっとここで言っているのは個人から見た話。
3人以上であればすべて集団って考えると、集団には個人間から外の作法が強制的に働く。
そうして、突き詰めて考えると2人の関係でも、培った集団の観念が適用されるから、純粋な人間関係はほぼ存在しないに等しい。あるとすれば名前を付けない関係。
自己肯定感もきっと集団の観念とセット。
おそらく当人が1番重視している集団のものさしで肯定されればそれ良いから、そうなるように磨けば良い。
最後。
なんだかどんどん世界が薄っぺらく見えてきている。でも、こういう傾向はきっと悪くないと思っている。結局世界は自分で創るしかないのだから、集団で培ったものさしは一旦排除してみるのが肝要。それでも居場所がないならしょうがないけど。
おしまい。
生産量
一食目は肉うどん。ちゃんと醤油砂糖生姜で肉に味を付けて、温玉加えてネギの代わりにカイワレダイコン。二食目はご飯に鰹節かけてマヨネーズと醤油をたらすだけの貧乏飯。そうして夜は、豚肉とキャベツのポン酢炒めともやしの豆板醤ナムルと目玉焼き。豆板醤多めに入れたけど、辛さだけじゃなくて味噌感が分かってきた。なんだかんだ結構食べている。
さておき。
母親から電話がかかってきて、なんのことかって思ったら、課金って言葉が分からないとのことだった。ドコモのポイントを貯めるとかで、アプリで課金をしたら20パーセント還元みたいなことの意味を知りたいって。
僕は人が何かを知らないことに対して何も思わないから、特に母親がこれを知らないことで優越感を抱くことはないけど、この言葉って日本語になかった言葉だったのかなって思っただけ。お金を課すっていう意味なのは字面で分かるけど、誰が創ったのだろう。写メとかと同じ次元の言葉なのかな。今や私的なところで携帯メールを使っている層はそんなにいなそう。
ともあれ。
なんだかグノーシス派が気になるなぁと思ってちょっと調べてみたのだけど、なかなか面白い考え方だった。プラトンからの系譜なのはいいけど、キリスト教に対する否定を論拠にしているところはちょっと気になる。
一般的に考えて、自分の見解を補強するために他の人を否定することほど手っ取り早いことはない。何かほころびを一箇所でも見つけたらそれで勝ったつもりになれるし。
ただ、これで何かが成り立つかっていうとそうでもない。
肯定できる積極的な理由がなければ、砂のお城。
最後。
交信での疎通の話。
僕は声色っていうのを大事にしている。
っていうのは、自分の声があまり好きじゃないけど、通る時と通らない時の違いとかを観測しているから。
嬉しそうな声とか、人に好感を持っている声っていうのは装える。
じゃなくて、自分用に発声しているっていうのはなんとなく分かる。
これは言葉の言い回しも然り。
じゃあ自分はどうなんだろうっていうと、逆算して観測する。
まぁ良いか。おしまい。
理解度
ぐだぐだしていたし、読書時間もなかったけど、いろいろ考えていた。
ご飯は、小松菜と豚こまのやきうどんと、アボカドとかいわれ大根とクリームチーズのポッカレモン、塩コショウ、醤油1たらしあえと、大根とキャベツとささみのサラダ。
昨日のぐだぐだ日記で固有の言葉って観念を出したけど、固有の言葉っていうのは、別に僕の中に在るわけではない。きっとアカウントごとにしかない。
自分1人の時が1番自分かっていう問題提起すら浮かばない人には何の意味もないことだけど、今日はこういう思考。
1人のときのアカウントは結局誰かと関係して持ち帰ってきたものの寄せ集めでしかない。だいたいアカウントを流用して使っているとあまり分からないと思う。統一的に自我を把握できからメリットもある。この意味が分かるとアカウントが分裂する。
持ち帰りで言うと、自分は本を読んだり、勉強とかをしたりしている時に、やっとここまで理解できるようになったのかって思う。これは何かを集中していただけでは出てこなかった。
自我が芽生えた時の最初の方に学ぶことって、共通認識と、自分に考えが及ばないことへの思考の省略。この時点では言語として考えている訳ではないけど、生存するためのエネルギーを使うことには変わりはない。
自分の外にあることを理解する必要なんてなくて、ただ安心できればよろしい。
僕はもともと何かを取り入れるときには思考停止してまるごと食べるみたいなことをやっていたけど、理解っていうのは、食べながら吟味できることだろうなって。新しいことをするときは考える前に実践するしかないっていうのも1つの真理だけど、実践しながらそうじゃないことを思考することも大事な気がする。例えば、相手はどういう真理でこういうことを言ったのだろうみたいな。
他の人はどう生きているのだろう。
ともあれ、一般的には考えるっていう観念はきっと行動という現実化に直結しているってことなのなのろう。だからいかがわしいことを考えている人の文面を見たらこの人はそう行動する人だって思うし、言葉の上っ面でしか判断できない。
仕事で言ったら、挨拶とかメールの冒頭にお世話になりますっていうことを書かなきゃいけないって無駄でしか無いように思う。でも、そういう儀式がないと相手を把握できないっていう不自由さ。
やれやれ。
個人的なアカウントでの疎通論。
疎通っておそらく主語で判断している人がほとんどだと思う。
「自分」の言葉が伝わるあの人との関係は正しいのだって。
記号で言葉を使うならこれで良い。
ただ、記号の外も当然含んでいて、では、当人が相手の言葉を汲み取れているのかっていうと、きっとそんなことはない。
僕の疎通論。
相手に言葉が通じたのは、自分の言葉が適切だったのではなくて、相手が汲み取ってくれたから。主観的には相手が汲み取ってくれるために自分が言葉を変えたってなるのだろうけど、この次元は記号論の話。
記号的に言葉を使っているか、疎通的に使っているかはだいたい分かってきた。未だにだいたいだけど、人って暫定でしか無いし。
意味分かるかな?
要は、自分の次元でしか判断できないことってことは、相手と疎通しているのではなくて記号を交換しているだけ。
疎通は言葉の交信ではなくて、観念の交信。
では、また明日。
おしまい。
後
ともあれ。
文字通りなんて厳密に考えると在り得ない。
伝わらないことが悲しいとかもどかしいなんて感情としては無駄で、本来は伝わらないことが当たり前。
今日上司に、メールで支持されて間違えて、この指示はこうとしか読めないって言われた。
個人的には固有名詞がブレてて読めませんっていう感じだったのだけど、こうとしか読めないって言えるのも凄い。ちなみにこの人のことは個人的に好ましくなっているから、大丈夫。
コピーしたのを、これ読める?って高圧的にやってみたマッスルより全然良き。
いや文字は読めますけど、斜め具合が気に食わないならそれはそう端的に指示してくれたら伝達できるのでって。
感情込みで言われたほうが残り易いっていうのは分からんでもないけど、そんなことはない。
喜怒哀楽の怒って、どういう意味でも、感情は独立している。誰に対してもってできない抑圧されているからそうなっていう怒がほとんど。今やきっと公然に怒り狂ったら発達障害認定だろう。
文字通りで言ったら、怒りは全然文字通りではない。虫の居所が悪いからそうなるだけのとばっちり。怒りの態度はともかく、怒りを言動するのはそう。
そういえば、恋人さんはいつも叱られた子供のような顔をする。
全然開放されていなさそう。
そうそう、本題は、文字通りなんてないっていう話。
だいたい人って言葉を尽せば人に自分が伝わるって思っているって想像している。
それで生活できているし、問題と思わない人は問題ない。
けど、そもそもこの言葉って本当の本人なのかって。
アカウントごとにに自我がある、で良いのでは。
デメリットは、自我が保てなくなるところ。
昨日の日記は自分が書いた言葉で思いの外自分で悲しくなって大変だった。
っていう意味でいうと、言葉には記号として使うものと、固有のものとして遣うものがあるような。
僕の観念では、固有の言葉が1番大事。
おしまい。
文字通りとは(前)
今日は新キャベツとアボカドとかいわれ大根が安かったから、ゆで卵とサラダにした。新キャベツとアボカドには目利き職人みたいな人がいた。新キャベツを一個一個もってひょいひょい放り投げて重さを測ったり。どうせ外の葉っぱは捨てるとは言え、あんまり触られるといい気はしない。目利きなら見て判断して欲しいところ。実際今日の新キャベは全然詰まってはいないものばかりだったと思うけど、それが広告の品というものである。
前置きもう一つ。
Wordさんとかウェブライティングとかだと、たりは二回ないといけないらしい。もちろん正式な文法だっていうのは知っているけど、作法に注視して文章としての趣がなくなるような気がする。
たりが一個しかなかったら、それは書き手が文章を知らないのではなくて、不文のたりを想像する余白を作っているのではと。そこまで自覚しているかどうかは定かではないけど、きっとそういうものがあるとして読む。
変な話、どれだけきっちり文法を整えたとしても完璧に読める訳でもない。
これはきっと共通認識はない。大きいものが証拠として必要なら、最高裁判所が言っていることだって一義的には読むことはできない。
みたいなことを前編としとこう。
個別化
鶏むね肉と白菜のオイ醤油炒め。鶏胸肉がどうやったら柔らかくなるかを分析している人の記事を見ながら。胸肉一塊だと筋繊維が3ブロックで違うから、それぞれの部位に合わせて直角に切ると良いとか。個人的には下味に砂糖を加えるのを推しているけど。
小松菜ともやしと人参のナムル。ナムルはだいたいレンチンで済ませているけど、茹でるとやっぱり違う。色も鮮やか。ごま油と塩昆布と鶏ガラスープと塩コショウ。でもレンチンだと栄養が流れないっていう説もあるらしい。あとは目玉焼きと大根サラダ。大根は調理法によって装いが変わるけど、なんだかんだ1番好きなのは生かも。
さておき。
仕事を振られると結構安心する。なんだか、仕事を振るためにあくせくされている感が見えて、結構生きづらい。良く分らないけど、ベルトコンベアとあまり変わりないのだろうなと。ベルトコンベアではない仕事なんてそうそうないだろうけども。
やれやれ。
そういえば、命題コレクションに羞恥とはなんぞやっていうのがあった。
精神的な感覚と動物的な感覚の不一致とか、普遍的な認識と個別的な認識の隙間とかいう所みたいだけど、あまりしっくりこない。集団に属するとき云々っていうのはなんとなく。
日本に絞ると、ミスが駄目なものっていう共通認識がミスしたら恥ずかしいっていう感情に繋がっているのではないかって思ったりする。ミスはしないことに越したことはないけど、このミスっていう観念はきっと機械で代用できる。
要は外れることは恥ずかしいということ。
この話全然楽しくない。
まぁ、自我の同一性が揺らぐときに羞恥を感じるっていうのはなんとなく分かるし、羞恥の観念には自己認識が基礎にあるっていうのも分かる。
一般論としてはそうなのだろうけど、僕個人だと、別に自我に同一性があるとは思っていないし、自己認識も全然確固としていない。ということになると、恥ずかしいっていうよりは、萎縮の方が近い。
羞恥を萎縮に言い替えたらだいぶしっくりくる。
恥じらいは好きだけど、これは個人的な関係の中だから、羞恥とはちょっと違う。
あとはなんだっけ。
夢の話でも。
なかなかリアリティあった。
実家で寝ていて、火事というか警報みたいなことが鳴って、すぐ父親と妹を起こして離脱したら、消防隊員みたいな人に避難するの早いですねーって言われたのが第一場面。なんでこの二人なのかっていうのは不明。
第二場面は、存命のおばあちゃんの死に際に手を握って泣きながら別れたのだけど、事後に親戚筋に、そんなこと喜ぶより死後硬直の前に手の位置を胸の前にクロスさせとけよっていうダメ出しをくらう。起きたときにそういう礼儀あったっけって思うくらいの現実感。
結局のところ、なんなのだろう。
どれだけ頭を回した所で自分には届かないけど、皆暫定的な自己認識で決断しながら生きているのかな。
以下言語化できないからおしまい。