硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

漂白

 

サラダ美味しい。本当はもっとカリカリにしてクルトンっぽくしたかった厚揚げのトースター焼きと大根とキャベツのマヨ青じそ

 

 

さておき。

 

日記を書くのは頭の整理になるという説もあるけれど、個人的にはどんどん社会離れしていくように思う。生活離れと言っても良いのか。観念の好感としての疎通なんて稀にしかないのだから、記号の交換の方が生活としては大事。

 

ミスが2つあったのだけど、有り得ないミスが1つ。その理由も分かるし改善策も分かるのだけど、結構危なくなってきた。前もこういうことがあった。まだ違うのは、もっと生活から壊れていたこと。遅刻が連続したり通常の自分では本当に考えられないレベル。でも、別に何も壊れなかった。結構過去には学ぶべきところはある。評価が変わるところは、仕事の外にはない。きっとその集団の最低限を壊さなければなんとでもなる。

 

もしかしたら、今の職場に鬱傾向であることがバレているのかもしれない。

僕がここで仕事ができていないのは、基準が多すぎて乱反射しているところにあると分析している。誰も聞いていないところの電話応対の方が基準減ってまともに会話している。

そもそも最大公約数が分かっていないのは確かだけど。

 

 

 

そもそも大阪が合ってないのではなかろうかと思わなくもない。

というか、どこにも合っているところはないような気もする。これ、自己否定じゃなくて、素朴な自己分析。

 

 

自己肯定感がない人の典型みたいなのが、ボーイズ・オン・ザ・ランに出てきた。他人の幸せが肯定できないし、少し近くなった人っていうのはずっと自分に重きをおいて欲しいか

ら、注意を引きたがる。要は、他人に肯定されないと自分を肯定できないっていう意味。

 

でも、こういう傾向はまだマシかなって思う。結構そういう人と接する機会があったけど、ちゃんとした保護者ができればきっと安定する。ちゃんと自己肯定できている人とこれは地続き。繋がっているからメンヘラみたいな言葉が創られたのだろうし。

 

問題は、他人に肯定されたところで自己肯定に繋がらない層。

そんな層はほとんどないのだろうけど、居なくもない。

 

 

 

ところで、集団の定義は3人以上だって思うけど、どうだろう。

またまた出てくる社会学命題コレクション。

 

なんだっけな。

全部引用するのは面倒だから、ざっくり引用。

 

どこの集団に属するかっていうエネルギーは個人には限界があるから、何処かにエネルギーを使ったらその分他の集団へのエネルギーは消費しなくなる、みたいな話。

 

要は、自分が重視している集団以外には省エネするのが人間っていうこと。

素朴に考えてもそう。集団に属していることで定期的にエネルギーを提供しなきゃならない。

 

重視とかエネルギーとかも、よくよく見れば観測値の話で、きっとここで言っているのは個人から見た話。

 

3人以上であればすべて集団って考えると、集団には個人間から外の作法が強制的に働く。

 

そうして、突き詰めて考えると2人の関係でも、培った集団の観念が適用されるから、純粋な人間関係はほぼ存在しないに等しい。あるとすれば名前を付けない関係。

 

 

自己肯定感もきっと集団の観念とセット。

おそらく当人が1番重視している集団のものさしで肯定されればそれ良いから、そうなるように磨けば良い。

 

 

最後。

 

なんだかどんどん世界が薄っぺらく見えてきている。でも、こういう傾向はきっと悪くないと思っている。結局世界は自分で創るしかないのだから、集団で培ったものさしは一旦排除してみるのが肝要。それでも居場所がないならしょうがないけど。

 

 

おしまい。