硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

公私混同論

ボーイズ・オン・ザ・ランっていう漫画を読んでいるのだけど、なかなか心苦しい。ボクシング漫画なのかどうかもよく分かっていない段階だけど、恋愛模様がなかなか悲惨。というか、関係性が皆希薄なのかな。でも、交わりを他人と言葉で共有できるっていう感性自体がそういうものなのか。現実。全然そういう話に交われない。交換可能な

 

夏目漱石の行人の主人公の兄が嫁と弟の関係を疑って悶々としている描写の方がなんだかしっくりくる。

 

どうも、社会的関係と個人的関係の混同があるような。確かに交わりは一種の社会的行為ではあるだろうけど、個人的な関係であれば誰かに話して笑い話にするなんてもったいなくてできないような。

 

さておき。

 

職務経歴書も作って試験の願書も出したし、当面の事務処理は終えた。職務経歴書の作成時間は前に作ったときよりも随分と短縮されて、なんだかんだ現職のスキルを持ち帰っている模様。

 

こういうものがきっと個人で見た人を培うものだろう。履歴書とかに書ける結果があるわけではないけど、持ち帰るっていうのは汎化。

 

もちろん仕事においてどうあっても持ち帰れない領域もきっとある。

それはおそらく職人と呼ばれる領域で、そうじゃない領域であれば、宝の山ではなかろうか。

 

例えば愛想良くすることとか社会人では常識で、きっとそういうスキルを持っている人は就業人口の6割以上は居るはずで。これをプライベートに使えないっていうのは、対価がないからっていう動機があると思うのだけど、そういう指標に合わせると、きっとプライベートだって対価関係がほとんどじゃなかろうか。

 

対価が無形なだけで。

無形だからって他人に不遜になれる人は、どれだけ社会的に凄かろうが個人的には優れていない。

 

どうでも良いけど、僕は職場で先輩になったら、後輩のミスに失笑する奴には絶対ならない。場に適合しようとしている人にそんなことをやったら適合する気が失せられる。という感じのことが今日あって、この職場には居たくないなって感じた、というだけ。場に甘んじて持ち帰っていない人は、場が変われば同じことをされることになる。これが良いか悪いかじゃなくて、そこにはそこのやり方があるっていうなら、それを空気じゃなくて言語として表現すべきでは。阿吽を感じろって言った所で、その阿吽はその場にいる人の間でしか通じない。

 

 

ともあれ。

 

ここで思うところは、人って公私の自分を区分けして、人に良き自分として接することが公で無理があるってことなのかなっていう命題。1つの具体例としては、母親が養護教諭だったのだけど、どうやら優しいと評判だったらしい。けども、私的な面としては家庭は壊滅状態だった。みたいな。

 

まぁ僕の部屋も壊滅状態だから遺伝傾向はあるのだろうけど、ここには人が居ないから。

いや、何かしらはいるような気がしないでもないし、人が来ることもあるから同じようなものかしら。

 

 

そうは言っても、人はどこかしらで人と繋がらなきゃならない。じゃないと自分すら把握できないから。そういう意味で、人は固有ではありえないし、固有であると自覚していていも地盤が揺らげばたやすい。例えば、第三次世界大戦に突入したら今の常識は非常識になる訳で。

 

そうやって個人的に刷り込みどうやったら改築できるのかって試行錯誤しているけど、緊張とか恥とか、笑われて萎縮するとかはまだ直らない。これはきっと相手の世界の中に生きていることから脱却できていないってことで、相手が変わればなんとかなるかなとも思わなくもない。

 

最後。

 

というほどでもないけど。

 

凹んでいる人に対する励ましで、生きていれば良いことあるみたいなフレーズがある。でもこういう言い回しなんだか嫌だって思っていて、今日言語化できた。これって親身になっているようで他責というか他人事的。責任は取りませんけど、生きていたほうが良いんじゃないっていう感じ。

 

だったら僕はどう言うかって考えると、というか、こういう言い回ししかしていない。

どうせ他責だったら、僕はあなたが生存していて嬉しいし、生存していて欲しいって言うだけ。良いことがあるかどうかなんて知らないし、むしろ辛いことの方が多いだろうっていうことを度外視して言う。

 

 

どちらが良いのかも分らないけども。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰かを分かる為には自分を分からねばならない

 

 

応募書類関係を整えようかと思ったのだけど、諸事情により他のことをしていた。弁当も作る時間ないかなと思ったけど、蓄えとレンジでなんとかなった。昨日のメインと、スライサー千切りの大根と人参のきんぴらと、ちょっと美味しいスクランブルエッグにしようと思って、塩コショウとマヨネーズを加えてしっかり混ぜて、バターで作って、ケチャップをちょっと。

 

 

さておき。

 

頭に栄養が行き過ぎて、フォルムが歪なことになっていると言われた。これは、父譲りの頭蓋骨と祖父譲りの体の骨格の歪さのせいだと思っているのだけど、まぁ、見てくれは見た人の評価による。自分が歪だなっていうのはなんとなく分かっている。線は細いのに、手はゴツゴツしていて指は太いし、体幹のところの薄さも肋骨が浮いているのも別に通常営業で、遺伝の継ぎ接ぎ感がある。

 

そうして、頭が大きく見えるのは、頭を使って脳味噌が育ったわけではなく、自分の頭の形とくせ毛のせい。上手く切ってくれる人じゃないとそうなる。

 

 

ともあれ、別にこの継ぎ接ぎ感をコンプレックスって思っている訳でもない。ギャップが器にもある、というだけ。

 

 

全然話が進んでいない。

 

 

人が嫌いになれないっていう下りで、僕が自己主張しない人の話をあえて聞くようになったのはいつからだろうって思ったら、あまり面白くないところに至った。

 

だいたい大学くらいに止まり木になったなぁって思ったのだけど、その要因はなんだろうって分析すると、誰にも何も自分を表現できずに死んでしまった父親の話を聞きたかったっていうところにあると思い至る。

 

誰かに話せるなら僕以外でも良いけど、僕だけにしか話せないっていう人には、そういう窓口でありたいっていう、ある意味懺悔的な行為。だから、僕は発話したいからしているっていうより、聞くための発話をしている。本当に聞いてくれる人なんてファンタジーと思っている。

 

話すための発話がここにあるのかっていうと、そんなこともないし。

僕は別に誰かに主張したい自分の見解って全くない。ここの発達段階が幼児レベル。

でも、需要と供給の世界では生きていける。希少価値で。

 

 

全然進まなかったなぁ。

 

 

最後。

 

世界の複雑性と減縮性なんてあたり前だけど、これが社会学コレクションに命題として出ているってことは、一般の人にとっては当たり前ではないってことなのだろうなと。

 

ある個人が生きていく上で、思考とか言動はどうしたって物理的な限界があるけど、可能性としては、相対的に無限に近い程ある。でも、生きていくには何かを選ばないといけないし、思考の幅だって生活に合わせないといけない。

 

拡張しているっていうのは、別に意思を持ってやっているのではなくて、単なる自分の可能性の追求をしているだけ。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開拓脳

 

 

今日は弁当作った。目玉焼きと、白菜浅漬け(塩昆布と七味)、ささみとほうれん草としめじのバターポン酢炒め。なかなか美味しい。昼ごはんはコンビニのツナサラダとなめこの味噌汁とごはん。この食事量だとどんどん痩せるなぁ。個人的には適正ではあるけど、不健康に見えるらしい。ご飯といえば、一昨日ロマネスコ初めて食べた。特に感慨はなかった。調理法なのかなんなのか。

 

 

さておき。

 

今日は転職エージェントに面談に行ってきた。自分にビジョンがないなっていうのは分かったけど、面談してくれた人がかなりふんわりしていてあまりアンケートの要望に沿っていないし、なんとなく心を傾けて貰ってない感。別にそれは構わない。本番はここにはないし、ふんわりしているっていうことは、何かしらのチャンスはなくもないっていうことだとしておく。試験の勉強をしていることは話した方が良いと言ってくれたし。話すことを抑えたことが今の歪な状況になっているとか。

 

あと、自分が変わったなって思ったのは、何かを聞かれた時に、説明ができない浮かばないが従来だったのだけど、今回はどこまで説明しようかなっていう感じになった。対人で自分の制限が緩んできたとも言える。考えていることを何処まで話そうかって吟味する余白。

 

ビジョンがないっていうのも、それぞれのビジョン用でストーリーを作れば言い訳で。嘘を付くと伝達力が落ちるからそれはしないけど、だいたい装う時間が短時間でも通じそうだなと。だって、社会は今の所そういうものが指標になっているし。礼儀とか敬語とか服装とか、前向きさとか。これが最低限度だっていうなら分かるけど。

 

どこまで説明するかっていうのは、法律に興味を持っているのは何故ですかっていう質問。

本当の所はもう分らない。就活を先延ばしにしたっていうこともあるだろし、そんなに大した動機ではない。ただ、何かしら人を掬いたいっていうのがあったいうのがきっと本質。

 

法律は社会的に常時をルール付けているし、有事でも資格があれば掬えることはいっぱいある。けども、今となると、別に社会を形作っているものはそれだけじゃないし、なんなら興味はそれに尽きていなくなりつつある。ある意味出発点でしかないのではなかろうかって。

 

あぁ、法律学は結論より思考過程が大事っていうのは面接でも言って良いのかも。

 

 

という意味では、営業に手を出すのも楽しそうだなって。

絶対無理だって思っていたけど、この器はまだまだ拡がる余地がありそう。っていう意味では自分に期待しているのか。僕は自分が読んでいる本の作者達ほど人が嫌いになれない。

 

切羽詰まって元気がなくなる程、未知に飛び出せるという変な回路がある。

 

 

最後。

 

 

今は時代の変わり目だなって思う記事を見た。

もちろん歴史的に時代の変わり目なんていくらでもあるから、ここが新規っていうことにはならないけど。

 

 

感想としては面白いだけど、ちょっと疑義があった。

待機児童をゼロにするために統廃合している校舎を流用すれば良いってっあったけど、統廃合している主な所は、児童がそもそも居ない地方圏の方が多いし、そこに入れるっていうのは無理があるのではって。

 

税収を消費税に変えるっていうのは確かになって思った。富裕層の方が高い買い物をするし、その部分は色んな所に回し易そう。結局国家を存続させるためには新しい人材が供給されることに財源を回さないと無理な話。

 

定年を廃止するっていうのも面白そうな政策。

 

 

バブルとか高度経済成長はとっくに終わっているのだから、考え方も変えていかないといけないのでは。

 

 

昭和脳から、平成の後の年号脳への転換。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内省

昨日はご飯を食べに行ってゆっくり寝た。最寄り駅の近くで去年食べて美味しいと思ったところだったのだけど、なんとなくイマイチ。食材はいいもの使っているし、塩も美味しいのだけど、何かが違う。

 

ところで、料理漫画とかアニメが結構好き。食戟のソーマとか焼きたてじゃパンとか現実離れしているものではなくて、将太の寿司とか味皇が出てくるやつとか。タイトル忘れた。カツ丼の二度揚げとか、アルデンテを時間で計るやつ。中華一番は中間くらいかな。美味しんぼはあんまりみたことない。

 

んで、将太の寿司を今読み進めているのだけど、勉強になる。同じように調理しても、食べる人を意識すれば味が変わるとか、包丁は切ろうとすれば切れないとか。包丁研ぎ器買わねば。

 

ということで、あの店の味が落ちたのは、きっと何か怠慢があるだろう。心っていうのは現実で言えば時間に出る。言葉とか態度とか諸々。でも、逆に心を擬制することも現実からできる。良さげな言葉と態度で偽れば、なんとなく相手を尊重しているように感じるし、大体の相手はそれで通じる。

 

 

変なアンテナが発達したからか、自分に心を傾けているのかどうかっていうのが分かる。

断言すると語弊があるけど、これは自分が積み上げてきた情報と直感の組み合わせ。だいたいの人はだいたい心を傾けていない。っていうのは、自分はこうしてきたっていうことに相手をはめ込むアドバイスする人は、あんまり他人を他人として見ていない。

 

他人を他人として見るっていうのは、自分が培った自分の外にある他人を許容できること。自分が好きなことを語ることは誰でもできるし、無責任な教訓論もそう。

 

誰にでも使える語録っていうのは、一定年数生きていれば誰も持っている。

そうやって語録でしか交信しないのも生活の1つ。

 

 

 

さておき。

閑話休題

 

 

西尾維新さんの掟上今日子シリーズで、天才とはなんぞやっていうフレーズがあった。

曰く、高度な努力をする資格、とのこと。

 

なかなか分かりやすい。

 

高度な努力って、努力辞めた人には別次元に見えるだろうけど、よほど突出してなかったらあんまり変わらないと思う。現代における資格には、それが生活の糧になるかっていうも然りだろうけど。

 

 

そうして、最後。

 

 

僕が一定の人に好かれるのは、僕が相手用の現実しか使っていないから。

これは、僕にまともな自分像がないからっていうのが前提だけど、これを違う同じような状況の人に流用はしないしできない。

 

自分の中で流用してそうだなっていうのは抽象化するとあるのだけど。

 

鏡理論で言うと、見たくなかった自分が見えてしまうのかもしれないかもしれないから若干申し訳ない。

 

色ろんなゴミ箱になる。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

観察眼

 

 

僕は基本的に○×がないことばかり考えているなぁと思ったけど、突き詰めていくと正誤で評価できる物事ってほとんどないっていう立ち位置だなと。自分の好き嫌いに関しては考えるまでもないし、政治とか科学とか学問とかは暫定の話だし、時系列の広がりを含めて考えると今っていう限定付きの○×。

 

ともあれ、個人に絞って考えると選択とか決断とかは即時的なものだから、○×で考えることも分かる。過去の自分の選択が◯ではなかったとか、これから◯の選択をしたいとか。でも、最終的には、自分の昔が自分の未来の選択を自動的に決めていることが多い。

 

自分が積み上げてきた時間っていうのは、否応なく未来を決める。修正したいなら、地道に過去を変えていく必要がある。そう、未来を変えるのではなくて、過去から流れてきていている歴史を微調整する。

 

過去を無いものにしてはいけない。

どれだけ恥ずかしかろうとも。僕は内的側面ではあまり恥ずかしいとかはないかな。過去の自分に教えを請うてみるみたいなこともなくはない。

 

そうして、考えずに決めたことの方が正解に調整されつつある。

 

 

 

さておき。

 

 

時間の話、というか、人の温もりとか好意をどこに感じるかっていうこと。

 

僕は人の好意には結構敏感。ここは歴史というかきっと普遍性。

我ながらあざといと思うのだけど、どうしようもない。ここは変えがたい本質と言って良いかも。好意風に見える媚とちゃんとした好意の見分け方、なんてほぼほぼないって思うだろうけど、凄く分かり易い指標がある。

 

時間を使うかどうか。

 

この時間をどう捉えるかだけど、ルーティーンの中の可処分時間をかけてくれたことって、あまり価値を感じない。こういうものが世界を作っているし、そういう交換関係を至上にするっていうのは分からんでもない。もちろん僕もこの恩恵には与っている。

 

でも、本当の関係は交換ではない、と思う。

期待ってきっと、これをしたからこれが返ってくるっていうことだと思うけど、僕は自分のものさしとしてはそういうものはない。相手のものさしに合わせると不具合は感じるけど、これは相手の土俵に合わせているだけ。

 

僕が思う本当の関係は、一方通行がたまたま一致した点でしかない。長いから安心だとか分かっているみたいな網の感覚は相手を殺す。殺し合い。

 

昔の人が手紙を大事にしていたのが実感されてきた。

 

 

僕は時間を食べている。

自分に対する心配とか好意っぽいものとか、言葉ではどうとでもなるし、言葉を発することには時間は使わない。

関係の本質は、自分に対してどれだけ時間を費やしているかっていうことを感じることだと思う

家族とか恋愛とかに使う時間じゃない。これって時間の使い方で言うと、仕事と同じ。

 

僕が見ているのって、社会的なその人ではなく、個人的なその人が自分に使ってくれた時間。

だから、ルーティーンから外れているんだろうなっていうの

が楽しいし、そこに好意を感じる。

 

だから、僕の指標で言うと、人の善し悪しって、時間の観念でしかない。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

かいつまみ

 

 

なんだかバランスが悪くなったから、揺り戻すために決断を変更した。決断は義務ではないし、別に対価もない。そしたら弁当も作れたし、食欲もまとも。ユーリオンアイスっていうアニメが面白いってオタク気質の友達が去年くらいに飲んだ時に言っていて、今見ているのだけどなかなか面白い。

 

 

さておき。

 

昨日の社会学の話だと素朴な自分っていうのは何処までいっても存在しないのだけど、だいたいの人はきっと素朴な自分を前提にして生きている。想像でしかないから分らないのだけど。今日思っていたのは、恥の観念ってどこから来たのだろうっていうところ。

これは一種の社会的楔なのだろうか。なんせ旧約聖書くらいまで遡るし。これも社会の起こりとセットなのかな。

 

 

 

ともあれ。

今日は新しい言葉を収集した。自我には主我と他我があるとのこと。この話はちょっと後に置いておいて。

 

今日はタイピングが頭に追いつかない。

 

 

そうして、止まり木を主とすることは辞めたけど、今度は自分が鏡だなぁって思っていた。というか現在進行系。そしたら、今日社会学命題コレクション読んでいたら、人は他人を鏡としてしか自分を把握できないっていう命題が出てきた。ちょっと安心。

 

僕がこういうことを思ったのは、自分が他人の作った自分像の中でしか生きていないなって素朴な感覚があったからだけど、これも程度問題で誰しもが持っていると思う。不自由なのが仕事だとか。

 

 

鏡理論は個人的には当たり前だと思うのだけど、人はそのうち鏡を見ることをやめる。自我の起原自体が鏡だって、子育てすれば分かると思うのだけど(僕はしたことないけど)。

 

鏡は、もう少し進めていくとブーメランになる。

何か悪い所ばかりが目に入るっていうのは、その人の自我の反映でしかない。

 

世界は鏡。

 

そうそう、主我と客我。

客我が先。他人の期待に応えることで自我が芽生える。こういう自我で留まっている人は他人に期待するし、期待に応えなかったら敵対視する。

 

この期待の話は、全然関係ない他人に期待するとかしないとかっていうことになる。僕は個人的に期待っていう言葉は使わない。そうして欲しいのなら要望するし、要望で終わって、その先は相手任せ。

 

 

主我は、こういう客我を飲み込んで分析した後に生まれるもの(独解)。

期待に応えることに疑問に思って、じゃあ本当の自分はどこだろうって。

 

 

最後。

 

人が歴史に学ばないのは、個人の反映だと思う。

素朴に考えて、今の自分の方が過去の自分よりは優れているって思っている人が多数派だからこうなる。

 

 

今日は全然拾えなかったからここまで。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

拠り所

 

食欲はなんとなく戻ってきたかも。炭水化物とタンパク質が多い。昼は肉々しいものにしてみようと思ってコンビニの揚げ鶏。そろそろ新鮮な野菜が食べたくなってきた。明日は作れるかな。どっちでも良いけど。ちょっと調べていたら、納豆掛けご飯1食で生活している猛者が

 

 

さておき。

 

昨日変なことを考えていたから、今日はあまり社会に馴染めなかった。

当たり前の共通項とされている前提が実感できない感じ。なかなかはみ出しているなぁという気分でお風呂読書していたら、なんとなく力づけられた。

 

社会学の本は、社会学入門3周くらいしたから、次はいろんな学者が提起した命題とその説明が載っている、筑摩書房社会学命題コレクションというやつ。引用した方が良いのかな。

人格の話。まるごと引用するとコピペが好きな人みたいで嫌なのだけど、わかりにくししょうがない。

 

「人格とは、文化の諸要素を個別的な様式で結合させたものである。それらの要素は集団に所属することによって個人へ伝えられる。したがって、個人が所属する集団の数が増せば、それだけ、人格はより個性を発達させることになる。」 Gジンメル

 

より分かりにくいか。この命題を現代文的に分析すると、文化は個人が属する1番大きいもので、国だったり、世界だったりでもいいのかな。その中に集団っていう人の集合があって、集合の中に個人が在る。文化の諸要素っていうのもよく分からないけど、価値観とか性向とか好き嫌いとか判断基準とか、人格の要素とされるあらゆる要素が含まれているのか。集団っていう観念も曲者だけど、家族とか会社とか学校とかSNSでもいいはず。人格と個性の関係はどうなのだろう。

                                                       

そんな感じで、個人は色んな集団に属しているわけだけど、人格はもともとあるものではなくて、集団から採り入れた要素の集まりと濃淡でしかなくて、任意的に決められるものではないということ。これで何が救われるかというと、ある個人が何処かの集団の諸要素に合わないからといって、それはその個人の比ではなくて、その集団が属していない集団にも属しているからズレているというだけ。

 

僕は集団に属していないっていう感覚を持っている人が好みだけど、集団に属していない人も集めれば集団になる、のかな。SNSがちょっと近いけど、同じ帰属意識を持っている人を探して集まる傾向はあるか。同じ集団であるっていう意識の共有は闘争の始まりだと思っているけど、個人間でも闘争はあるし、どうなのだろう。

 

 

あと、シュリンクの朗読者で、決断と行動は別のものだっていうフレーズもなんだか良かった。朗読者ってちょっと心象風景が村上春樹の小説と近いのだけど、村上春樹さんが影響を受けた小説家の中にいたのだっけ。アメリカの作家が多かったような。

 

 

残るは夏目漱石の行人。主人公の兄が、今の日本社会はー上滑りの御上手ものばかりが存在しうるように出来上がってしまっているみたいなフレーズ。これはなんだろうな、別に僕がそう思っている訳ではなくて、こんなこと考えている人もいるんだなみたいな感じ。

 

 

最後。

 

自己肯定の話はどんどん先延ばしになるなぁ。

 

でも、関係あるのかないのか、今日思ったのは、自己肯定感が強い人は自分のことを好きと評価することが多いだろうけど、自分って好き嫌いの対象にはならないのではないかということ。

 

他の人はどうなのか知らないけど、好き嫌いってどうしても比較の観念が伴うと思うのだけど、自分は比較の天秤には載せられないのでは。

 

時間切れ。

おしまい。