硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

因果

こんばんは。

 

台風は何処に行ったのだろう。逸れたのか、それともこれからか。冷蔵庫さん、今度は冷やしすぎてくれだした。まぁ強にしていたからだけど、これが通常運転なのかどうかはいちいち観測してないから分からない。

 

いつどうなるか分からないから長持ちしない食材はあまり買えない。だから、もやしはやめて豆苗にした。1回で使って栽培に回すと冷やす必要がない。とか言いつつ肉買っちゃたけど。なんだかんだ冷蔵庫さんを信用しているという。

 

さておき。

 

試験の結果が返ってきた。13点足らず。問題数にして5問くらい。壁だけど、ほぼ自分の認識と成果がやっと一致してきた感。運の誤差もいくつかはあるだろうけど、足りないところと力を入れていたところがちゃんと返ってきている。ということは、ちゃんと足せばなんとかなるということ。民法はちゃんと返ってきていたし、憲法は好きなのだろうなとか。繋がりで把握できていない行政法と商法が今回の不合格の原因だけど、自己分析通りだから、そういう風に足せば良いだけ。刑事系は何故かまぁまぁ良かったけど、整理するだけで頭に残る科目なのかもなと。ちょっと数学に近いところがある。人の生き死にに一番関わる法律が一番記号的っていうのはなかなかの皮肉。まぁ一番致命的な感情に関わるところだからこそ恣意的な運用がないように記号的な基準があるということなのかもしれないけど。

 

そうして、仕事の話も直結している。安心感を与える声質とは別に、自分が理解していないことを上役からの説明そのままに説明することでは相手に理解が得られないということ。なんというか、先生もまっさんも下の教育に対して試行錯誤した結果がこの教え方なのだろう。多分前世代にはきっちり研修で知識を入れてやってみたけど駄目だったから、一個一個の具体例の積み重ねでやってみようってことになったのだと思う。ただ、僕は繋がってないない断片的な知識ではあまりよろしくないという。

 

実際にシステムを使っている人が日常でどういう処理をしているのかっていう流れがないと、どういう風に不具合が生じるかって想像すらできない訳で。演繹と帰納どっちがどっちか忘れたけど、僕は具体例を積み重ねて一般に至るのは合わないような気がする。具体例は具体例でしかないそういう風に調整したっていう風にも言える。なんとなく具体例から想像できる外を見ているような。

 

 

ということで、本日の本題。

 

人の文章に惚れたとき、その人の固定された過去としての言葉に向いているのか、その言葉を生み出す人格に向いているのか。これって、別に文章に限らないと思うし、なかなか歯ごたえがある思考。

 

ここで好きの定義が出てくるのだけど、好きって対象が人か人以外かで随分色合いが違う。基本的には存在を肯定するで一致しているように思うけど、存在を肯定するだけでは好きにはならない訳で、それ以上の何かがあるはず。まぁ多用はできないし、多用するならもっと違う切り分けなのだろうなという程度で良いか。あぁ、もっと共通項で言えば、自分にとって価値があるものでも良いかもしれない。

 

創作物なら人格から独立の文章が好きっていうのはある。切り離す技術もきっと小説家のスキルの1つだろうし。まぁ僕は小説に関しての好きの定義は作者とさしで話してみたいと思えるかどうかだけど。面白いならもっとハードルは下がる。

 

ぐだぐだと書いているけど、要は人格に普遍性があるかということ。

なんかヘーゲルさんにも精神の普遍性っていうフレーズが出てきたけれど、これはきっとニュアンスがちょっと違う。

 

まぁ器としてのというか現実としての好き嫌いになると前提がちょっと変わってくるのだけど。まずは興味より自分にとって危険がないかどうかが一番の問題。っていう観点から見るとネットで声が大きくなる人は、ネットであれば大きな声を出しても自分の現実に危険がないっていう観念であって、人を見る視点は自分にとって利か害かっていう基準になる。この意味での好きは、自分にとって利があること。

 

世界が面白いのは、こういう基準で見る人にはそういう風に世界が成り立つところ。

自分を変えるって、努力するとか何かするとかより、ものさしを変えることではなかろうか。

 

人格の普遍性ってなくはないと思う。突き詰めた根っこみたいなものはきっとある。けども、人間関係において人が相手の人格の普遍性を見ているのかというとそんなことはない。だって自分も突き詰めてないし他人も突き詰めていないから、自分に触れる瞬間の他人にしか関心がない。だから同窓会とかが成り立つのだろう。僕が同窓会が嫌いだから偏見はあると思う。

 

人格の普遍性のほとんどは、自分の人格はこういうものだっていまとまりなのだろうけど、何かが変われば変わるものでしかない。例えば付き合ってみたら思っていたの違ったみたいなのもこれ。僕はこれでふられてきた側だから、人が相手の人格を見ているのってこの程度なんだろうなっていう経験則がある。もっと自分にとって都合良かったらよかったのにってくらいでしか捉えていない。卑屈観測。

 

人格の普遍性での関係があるとすれば、変化するものでしかないっていう共通認識があることではという矛盾。でもこれで継続する関係があるとも思えない。いや、だいたい同じスピードで変わるならあるか。

 

なんだかもともと思っていた筋からはずれているような気がするけど、おやすみなさい。