硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

自分の定義

帰ってからダメもとでもう1回電源を入れてみたらなんだか最後の力を使ってくれた冷蔵庫さん。ありがたい。週末までもってくれるとよいけどそこまで都合良くはいかないという気もする。というか、土曜日に買って日曜日に届くのかいな。とか何も知らない。そうして次に買い替えるときにはもう忘れているのだろう。人間の良いところは、記憶を人格に合わせて伸び縮みさせることができるところ。

 

「多重人格とは押さえつけられた可能性が独立したもの、それがどんなに病的で周囲に破壊性があるものでも可能性に善悪はない」

 

ブギーポップは笑わないって読んでみると良いって言われているのだけど、かれこれ4年くらい見つからない。アニメは見つかったから見てみているけど。

 

ともあれ。

 

今日はまっさんが休みだったから先生に負担が集まったのもあいまって、先生が怒っていた。先生は自分で言っているより短気なのかも知れない。周りも慣れているのか一瞬しんとなるものの、あとは通常営業だった。でもここの問題は先生が短気なことではなくて、温和で何でもやってくれるっぽい先生に仕事を押し付ける人が多いことに対する感情を表明しないといけない構造だと思う。

 

怒りを表明されたときの対応って、怒りが去るまで待つっていうのが常套手段。怒りは対話を求めないものであって、その瞬間にその怒りからズレたことを言っても意味がない。という学習をしてきたのが僕。母親が理不尽によく怒る人だったから、怒りが去って期限が良い時にするしかないって思う。

 

でも、先生と母親の怒りは構造的に近いような気がする。やや違うかなって思うのが、母親の場合は、怒りを蓄積した対象と怒りを発散する対象がややズレているように見えるところ。怒っているけど、本当に自分に向けられた怒りなのかが定かではない。虫の居所が悪かっただけだろうと。

 

ただ、これってなかなか難しいところ。人って自分と近しい人を認識するとき、時系列で関係した長さを基準にする。だから、過去の相手に対する怒りを現在の当人にぶつけるということになる。これならしょうがないというか正当な怒りだと思う。すいませんしか言えない。でも、過去の自分がしたことは改められるものではないって現実があるときに相手の過去を責めることって、関係性の未来が改善することはない。っていうのも経験則。お互いの人格に変化がないっていう前提なら問題はないけど、人格の変化って基本的に観測しようとしてもできないから、年月を経て齟齬が出てくるのは当たり前ではある。

 

僕が失敗した経験則(もしかしたら成功とも言えるかもしれない)は、相手が自分を変えようとしているのに、過去の相手の失態に重きを置きすぎて相手の変化を捉えられなかったことにある。過去の瞬間の自分の怒りに重きを置きすぎて、今の相手が捉えられなかった。

 

でも、これって自己認識と鏡だからしょうがない。つまり、自分の人格を確立することを過去の実績の積み重ねにしている場合、関係も同じになる。同じ実績を積み重ねたのが関係だっていうのがこれ。

 

そもそも怒りの用途ってなんぞやっていうと、要求に尽きる。怒れるっていうのは、相手に何かを求めることができるということだから、健全な観念。僕もイライラは良くある。匿名

的個人に対して。

 

要は、自分にとって都合良くない何かに対して都合よくしろよって求めること。

こ関係性の中で双方が怒ることができる環境であれば問題はない。

 

僕は都合良い状態っていうのがズレているに違いないから、関係性を構築することができないんだろうなという感想。

 

僕にとっての都合の良さは、欲求に応えてもらえることではなくて、欲求とは関係ないところでなにがしかの良いことがあること。もともと何かを求めるっていう意味の欲求がほとんどないように調整している。だから、鏡理論でいうと齟齬が生じる。

 

 

鏡理論と言えば、自己が何処にあるかっていう脳疾患の症例を挙げている本が自我の脆弱性を語り出している。今ちょうど鏡に写った自分を他人とする症例が出てきている。こういうのを見て、自分はまともに世界が見えていると思うのか、明日は我が身にとどまらず自分もそうかもしれないとするのか。

 

個人的な視点で言うと、人って自分の自我ないし人格に自信持ちすぎじゃないかって思っている。

 

ここで記憶の話に戻ってくるけれど、人は自分の人格を補強するための記憶力は高いと思う。だから、新しいこととかどうでも良い記憶に対しては外付けになって、覚えていられない。って考えると、自分とは関係ない記憶力を増強するためには、自我から解放されることなのではと試行錯誤してみたい。ただ、自我から離れられない本質は興味。興味が人格に直結しているとすれば興味を盛り上がらせるように人格を調整しないと難しい。

 

じゃあなんなんだっていうと、マニュアル化できないのが人間だ、でいいのかな。

はい、おしまい。

 

皆さん良い夢を。

 

おやすみなさい。