硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

先の先は底の底

新弁当箱1日目はなかなか良好。おかずは卵焼き、鶏むね肉と玉ねぎの炒め物、人参のグラッセ、余ったスペースにサニーレタスとミニトマト。前の弁当箱はシリコンの入れ物3個でぴったりだったから、お昼に生野菜が食べられるのはありがたい。ご飯も朝詰めて密封したからなかなか新鮮だった。悪くなることを考えると冷蔵庫に入れさせてもらってレンジを使わせてもらうのが一番いいのだろうけど、まだちょっと勇気がない。

 

そうして、食生活が良好になるなぁと帰宅したら不穏だった。昨日買った鶏むね肉が悪くなっていたし、冷凍したはずの豚しゃぶ肉も駄目だった。冷蔵庫の故障。コンセントを1回抜いてみたらモーターは動いているからなんとかなるかと思ったけど、まだ怪しい。フラットな状態からどれくらいで冷えるのか分からないし。まぁ電気代から考えると徐々に冷やして保温するものだろうから、まだ体感できるほどは冷やせてないのかも。

 

まぁもう15年選手だし、冷凍庫もすでに怪しかったからそろそろ世代交代だろう。文明の利器の凄さというよりなんだか悲しい感じはある。これが愛着か。特に手入れもしていないけど、学生時代からよく頑張ってくれたなと。冷凍肉はほとんど死ぬだろうけど、もともとなかったものだって考えると甘えていただけだろうと。そういう時系列を生きていた人からすれば当たり前。

 

 

まぁなければないで弁当生活もやりようはあるし、ちょうど良く買い替える資金も近いうちに入るし。世界はなんとも都合よくできているのか。1人用で野菜室がある冷蔵庫ってあるのかしら。ついでに他の家電も回収してもらおう。

 

という感じで、僕は環境に対する不満みたいなものがほとんどない。これって、人として欠落している。来る人拒まず去る人追わずという観念もきっとここから来ているはず。環境としてあるものは等しくありがたいし消費するけど、それがなくなったとしてもそれなりに生きるだろうなって。

 

もっと言ってしまえば、そうやって生きるしかないのが生物だろうって思っているから。

環境を変えたい欲望って相対的だと上手くいかないような。果てがない欲望で生きるというならしょうがないけれど。

 

要は、環境に関わるものって器の話で移ろなものだから、自分の根拠としては足りないということ。欲望も、器にかかわるものであるものにはほとんど拘泥できない。だから、不健康な習慣を平気でやっている。

 

 

いったんおいておく。

 

さておき。

仕事の話。

 

もう1人の名もなき上司は、かなり合理的視点で仕事を捉えているのだろう。休憩とか帰りとかきっちり定時近くだし。こういう上司もありがたい。その効率の中にもう1回同じ処理をするときに相手が迷わないように余計に説明する人情みたいなものも含まれていて人間味を感じる。余計なことはしないっていう枠の中でどれだけのことができるか。これってかなり頭を使い続けないといけない。視点が自分ではないけど自分を使わないといけない場って、自分視点でなんとか相手を収めるとは頭の回路が変わる気がする。

 

同期は傾向として規定時間に収めるっていう観念が経験則上ないから、OJTのエクセルで一日の感想を書いて、それに研修監督がコメントをするやつを勤務時間を越えて書いていたりするから、まっさん(命名決めた)の内心ではかなりイライラしていると思う。仕事で培ったイライラを言動に出さないスキルで穏やかに振る舞っている風だけど、なんとなく見えなくはない。

 

先生とまっさんだと呼称で格差がありそうだけど、そんな意味は全然ない。呼称は全然関係ない。

 

そういえば、呼称に対する観念もおかしいところがある。

 

他人をどういう風に呼ぶのかにずっと違和感。これは時系列上のあるタイミングからずっとある。自分を代名詞で呼ぶときの違和感と直結している感はある。僕から俺に変えるタイミングがあったはずなのだけど僕の方がしっくりくる。なんならなるべく主語は使いたくない。っていうのは高校時代からあって、当時室長になった人をしっちょーって呼んで誤魔化していたのだけど、卒業後会ったときに名前を呼んでくれよって言われたことがある。

 

偽装する技術が上がったからピンポイントで指摘されることはなくなったけど、この観念と冒頭は繋がっている気がする。僕は自分の氏名は大好きだけど、これを呼称で間違えられてもなんの感情もわかない。まぁそうだよなというだけ。でも世の中の人の多くは自分の氏名と人格を直結している思っているから、応対ではかならず名前を呼ぶ。呼びかけられるだけで無意識に個人として認められている感があるのだろうなと。

 

ということは、僕は何をもって人に認められているのかという観念を自分でも把握していない。そもそも認められて嬉しいみたいな観念がないのではという実感。ある意味エゴしか生きられない。生きているだけで余生みたいな水準なのかもしれない。その中で自分がどれだけできるか。この「できる」も広く知られるとは違う。営業力皆無。

 

 

それだったら通常ルートで生きればよかったのにねって自分を観測して思うけど、これが駄目だったのだから今になっているっていう意味で見れば、ここに私の本質があるとも言える。だとすれば、どう考えても誰かと共同生活できる人格ではなかろうなと。

 

関係性において、自分の認識を語れないっていうのは行動様式のズレより致命的な欠落。相手からして、私が相手に対して何を考えているかが認識できないから。ここに関しては僕にも言い分があるけれど、この言い分は言葉として現実化しない。

 

 

ここまでかな。

 

 

おやすみなさい。