硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

悲しみ嬉しみ

今日のアニメは姫ちゃんのリボン。なんとなく懐かしや。61話も見きれる気がしないけど。僕は姉と妹に挟まれて育ったか少女漫画もいっぱい読んで育っている。なかよし、りぼん、NANAが乗っていたのはなんだっけ。やや時代は移る。あぁクローバーか。タイトル忘れたけど、柘植さんっていう上司が出てくる漫画が結構好きだった。姫ちゃんのリボンって弓矢が出てくるやつだっけ。違う気がする。

 

まぁこういう意味での育ちってどうにもならんよなぁ。僕はウルトラマンとか仮面ライダーとかも見ていたけど、ヒーロー物に特にあこがれるみたいなことはなかった。もちろん遊戯王とかドラゴンボールとかるろうに剣心の真似事はやっていたけど、これはこれで同世代の男の子達と話を合わせるだけの惰性だった気がする。まぁいまだに少年漫画は普通に好きだけど。

 

少しずれたか。育ちっていうのは、兄弟配置みたいなところが1つ。異性の兄弟がいる人は、異性の本質の原初が兄妹だったりするだろうし。あと最初にどういうご飯を食べていたのかとか、作法に厳しかったかどうかとか。それを他人との関係にも求めるかは人格問題として、自分の人格がどう在るのかっていうのは物心つく前にだいたい決まってしまうということ。

 

人格の定義も難しいところだけど、自分がどう在るかっていう内向きなものではなくて、世界がどう見えるかっていう話だと思われる。ということは存在そのもののことだから内向きにしてみても変わらない。

 

こういう方向で言えば、僕の育ちは悪くはない。

ただ、それをとっぱらった存在として観ればたちが悪いこと極まりない。けど、これって世界の誰のせいでもないというところまでやっと来た。他責にはできないポンコツな部分があるということ。

 

さておき。

 

ご飯の話は省略。

 

仕事の話。

 

今日は繁忙期で、なおかつ人も少なかったから、上司が僕と同期の応対をモニタリングしている場合じゃないってことで、8時間自習だった。何某かでも人材を働かさないといけないってないって感覚がないこの職場は凄い。個人的にも同期的にもこれまでの仕事で出てきた事例とか知識を整備できたし、ここで遊んだ人格は自然に淘汰される空気を創ったまっさんと先生はかなりのやり手。ここまで新人に自由を創る余裕があるっていうことではない。新人は基本的に生産性には貢献できないのを前提として、使える人材にするために何が必要かって、優しく接しながら自発的に成長させることだろう。

 

僕はここの考え方とかシステムの仕組みとかはかなり好き。同期はきっと残るためにはこうしないといけないっていう仕事論で残ると思う。ここには、自分がつつがなく仕事を終えたいっていう最低限の観念がある。

 

もちろんそれはそれだけど、個人的にはそれだったらコンビニバイトの頃と変わらないから、その先がある。

 

という流れで、今日の仕事の終わり際、まっさんから麻雀クラブに誘われた。これって、合理性を観察する限り、おそらく硯は麻雀できるだろうだろうなって当たりをつけた発言だと観測する。で、もっと考えると、おそらくまっさんは僕に興味を持ってくれたんだろうなってことになる。

 

仕事の時間内でどれだけ好意的に接せられても、僕には何も響かないけど、時間外に誘われると全然違う。ついでに言うと、仕事と仕事外をきっちり分けているように見えるまっさんに言われるのが余計に。

 

何を言われるかではなくて、誰に言われるかという話。

 

今日は仕事を振れなくてすいませんでしたと言える上司が居る職場は非現実の範疇。

 

 

面白い職場だし、面白い人たちではある。

もちろん、まっさんと先生に限定しているけど。

 

 

今日は色んな録音を聞いていたのだけど、声だけの疎通における非言語も面白いなって思った。

 

僕は声フェチでもあるというかなりの変態性の塊。

という側面で見ると、先生とまっさんの声って色がない。もちろん相手の感情に沿うみたいなことは前提だけど、ちゃんと疎通している声。他の人は自分の方が知っているっていう色が滲んでしまう。これってこうですねって決めつけてしまう感。あなたこれ知らないよねって。

 

で、僕が唯一自分の声でマシだなって思ったのは高圧的側面がないこと。声のプロが研修してくれた昨日に誠実な印象がある声だ、あとは相手に安心感を与えるようにすれば良い、だった。

 

つまり、仕事とは別なところで、この人の声って良いなぁって捉える回路があるということ。

だいたい自分の録音を聞いていると、相手がフォローしてくれているのが分かる。声だけの疎通が不自由のは確かだけど、僕は言語だけでこれをやってきた質だから、実績を積めばどうにでもなるような気がする。

 

僕が発声という波に何を見ているかというと、疎通ではなくて、その人の個別的な声。

礼儀ではない。

 

 

麻雀界隈に戻るけど、その場を想定して、先生に対して何を発話するかっていう脳内会話が想定されてた。先生はコミュニケーションが大事だっていうけど、疎通って、伝達か要求の欲求がないと起こらないものじゃないですかとか。

 

こういう脳内想定会話って現実化したことがない。想像したことは起こらないという世界線で生きている。

 

これってなんなんだろうね。

 

一応メリットもあるのだけど、希望はそもそも叶わないものだっていう世界はどうなんだろう。僕の想像はほとんどないに等しいくらいくらいのものでしかない。こういう会話をしたら相手はどう反応するのだろうとか自分がその後どうなるかっていう未知とかそんなやつ。

 

僕の世界では願わない方が返ってくるものが多い。

 

 

 

これが良いかは知らないけど、これで生きるくらいがちょうどいいんだろうな。

 

おしまい。