外の外
月が綺麗だという情報があったから、帰り道は空を見上げてみたのだけど見つからなかった。都会は空が狭い。便利への対価だから文句をいう筋合いでもないけれど、無機質なものに囲まれると無機質な気分になる。
さておき。
色覚が刺激されたからだろう、弁当はなかなか鮮やかになった。ブロッコーリーと人参の胡麻和え。ごまは少なくして、カレー粉も少し。彩りがでるように。目玉焼きに塩コショウ。茄子とキャベツの醤油味噌砂糖オイスター炒め煮。緑、赤、白、黄色、茶色、紫。先週末の茶色系ばかりと比べると雲泥。色も料理の一種だし、この辺りも意識していこう。
色覚も味覚と同じように鍛えられるものなのかなって、そりゃあそうか。五感は須らく意識して積めば応えるもの。まぁこれは僕の肉体という器の話だから他の器のことは分らないけど、速読とかソムリエとかあるし、だいたいは一般化して良いはず。てっぺんの方までいけば持ち合わせたセンスの領域になるだろうけど、そんなものは持ち合わせていないことは知っている。
そういえば、僕の三十年後は藤田嗣治みたいな顔になると顔の半専門家に言われた。自分でも多少は似ていると思う。でも、このネタ誰に通じるのだろう。画家としての知名度が分らない。日本の小説家で言うこともできないし。というのは、色覚は万国共通だけど、文字は言語圏に依るから。個人的には、好みで括ることができない普遍性をたたえていると感じたのだけど、どうだろう。
小説だって、最終的には普遍性だと思う。
栄養源は普遍性。そうして、完全な普遍性と、その作者の普遍性に細分化される。読んでいて楽しいのは普遍性を感じるもの。軸とかポリシーとも言い換えできそうだけど、文豪っていう言葉があった時代の文士の小説はだいたい美味しい。神話とかもそうだけど、またちょっと違う普遍性。
僕には普遍性はあるだろうか。
最後らへん。
日記的日記。
なんだか調子は良さげ。顔色は東洋医学でもあるけど、昨日恋人さんにドス黒さがなくなったと言われた。体感としては、今日の自分の声は結構スムーズに出ていた。外から観察したらあまり変わらないのだろうけど、張りがある気がした。
これの原因は色々考えられるけど、一番は平安神宮さんが諸々流してくれたのだろうなと思っている。
因果関係って人が大好きな観念。
因果関係っていう言葉自体は意識されないけど、何かのせいで自分がこうなったとかこうであるとか、何かのおかげでこういう風に向上したとかって具体化すると分かるはず。
僕の中では、そんなことはどうでも良い。
とりあえず理由付けしているけど、人の本質は因果関係の外にある。
って開き直ってくると、世界が変わってきたというだけ。
感謝は誰の為にするかっていうのも、別に相手の為にするのではない。
感謝の意っていうのを素直に表現できることが自分の中で精神衛生上良いから。
在り難いものって自分が感じたらありがとうで良いし、当たり前だと思ったら、別に社交辞令的に言ったところであまり効果はない。ありがたがられたい人には効果はあるだろうけど、そんな人ろくな人物ではなかろう。
そろそろアルコール入れて書かなくても良くなるかもしれないなって予感もある。
健康のためっていうよりは、別に積極的に死に向かう必要もないし、素面でも酔ったときとあまり変わらなくなってきつつあるなという方向性。栓が外れてきたのかねぇ。
やべ。
寝よう。
おしまい。