突き詰める不具合
今日は完全にノープラン。自分の気分に合ったアニメもよく分からないから、ワンパンマンにしてみた。同期がなんだか元気になっていた。良く寝たのか何なのかは分からないけど、顔がスッキリしていた。エクセルにはあくせくしているけど、先生は教えたがり傾向があるみたいだから調和している。エクセルの動きってWordと比べるとなんかめんどくさい。けど、もともと数を入力して計算するためのものとして設計されているから、セルの中での改行に手間がかかるのは分かる。
まぁ、教えたがり傾向は僕にも少々ある。教えたがりというと自分の知識でマウントを取るっていうのが通常形態だけど(偏見)、先生と僕の共通項は、単に自分が発見したものを共有したいという感覚。幼稚と言えば幼稚だけど、求めていなさそうな人には発信しないという意味ではた迷惑ではないという。
さて。
前置きを書いてみたけど、どうしよう。
時間の配分として色々淘汰されてきている。世界が個人個人だっていうのは、客観的にどうかの前のこと。見られるもの、できるものは物理的に限られていて、何を見るかっていうのが限られているから。つまり世界はそもそも不公平だということ。
人が相手にできる人も、人の作業量も限られた中で、何を選択するのかは自由なのだから、必然的に偏りが生じるのは当たり前のこと。これを選択させられていると捉えるかどうかは微妙なところだけど僕は少なくともだいたいは自覚している。テレビはないから勝手にメディアが流れることもないし。
今住んでいる市でいじめがあったらしいっていうネットのニュースの表題だけ見かけたけど、いじめがなくなるとしたら、社会がなくなった時で、もうちょっと前で言えばそのいじめのニュースを眺めている人が個人を個人でしか見なくなるとき。いじめは悪いことだというけど、その悪さは他人事ではないはずなのに、他人事として見なくなったときには変わると思う。ただ、これって個人個人に求められるハードルがやたらと高い。もともと他人なんてどうでも良い人の集まりならいじめはないけど、これはこれで結構厳しい。なんでかって認めるところが技能とか才能とかだからそれがない人はそこに入れないし。
ざっくり言うと、劣等感をもっている人がいじめは悪いって他人事で言っているうちにはなくならんだろうなという話。僕もそこでいるときはそういう振る舞いしかなかったからそうしていたけども、今や集団自体に嫌悪感がある。
劣等感の反対は優越感で、優越感の方がもっと質が悪いのだけど、社会は人工的にそうやって人が対立するように操作するのが治世学としてしはいいのかもしれないなとか。国民同士で争っているうちは、国家への疑問は見えていても問題の選択としては内輪の方が喫緊になるし。
あらゆる歴史で、個人個人が対等になったことってきっとない。カースト制とか、部落制度とか、階級で統治されていない国家はない。日本は割と先駆だけど、平等にしてしまったときの不具合でやや混乱している感。結局のところ人の本質は自分の欠陥とか自分の負の感情を他責にして投げてしまうものだろうなと。
でもこれって、人格の回路を1つのシステムとしてデジタルで考えたら分からなくはない。自己保存の為に周りを下げるっていうのは結構自然なこと。具体的なだれだれよりはできているとか知っていることを基準としている。存在期間を基準としてみるみたいなことも往々にあるし。
そんなこんなで、人が人に与える影響について。今まで書いた文脈からすると、影響っていうのは、言葉での賛同ではなくて、時間を消費すること。
時間を消費するのは、相手に対してプライベートな時間を諸々使うってことだけど、そもそも消費ってなんだろうって素朴に考えるとややこしくなる。
もう個人的にブームが去ったコンテンツにTwitterのフェミニストっていう界隈があって、性的消費っていう文言がやたらと流れていた。良く分からないけど、女っていう属性というだけで、男に消費されていて、それが気に食わないという主張。ところででもないけど、これって消費税の観念ともつながっているのかなって。消費税って払っているものだけど、待て、じゃあ違うか。あぁ、分かった、消費されているって声高に主張している人の主眼は、消費するなら対価を返せよということか。ポンコツ観念。
そもそも消費って一方的なものでしかないでしょうと。
何を消して費やすかって時間でしかない。
変な話だけど、自分が嫌だとか気に食わないものを見て反論に費やす時間も消費で、これを社会の構造のせいだって他責にするのもおかしい話。もっと美しい世界も見られるしもっと自分を探求する選択肢の中で、当人に中でグロテスクなものを選ぶっていうことは、当人人の中ではそれなりのメリットがあるのだろうなと。良いねを押すだけで賛同することには時間は消費しないから簡単にできるけど、これを自分への後押しだと思えるのはなかなか。
結論としては、この場は現代のテレビ的な立ち位置だろうなというだけ。
もう寝るのかという感じだけど、盛り上がったらまだある。
今日はこのまま酔いつぶれて良い日だから。
影響とは。
毎日読んでいるとされている人が僕の思想的に流れるなんてことは全くない。これができたらキリストさんだし、人はほとんど外界から影響を受けない。思想は行動様式と直結しているから現実が変わる訳で、現実が変わるということは自分が変わるということに等しい。
影響という言葉って日常ではあんまり使われないだろうな。使うとすれば他人事としてであって、自分の人格がこの人に影響されているみたいな言い回しはしない。僕の影響の定義はもっとわかり易い。義務なきところにかけた時間というだけ。義務あるところで積んだものは、義務あるところは社会的な人格だから全然違う。
これって凄くわかり易いと思うのだけどどうだろう。
返ってくるのが当たり前だと思っていると、足が掬われるし、帰って来ないならそれでいいし。
まぁ基本的には対人で影響なんて言葉は使わない方が吉。
あなたに影響受けていますって言われてもきっと困る。
ともあれ、言葉の定義ってふよふよしているのに、なんで一元的に見ているんだろうっていう疑問はある。はっきり言うと、文字数が少なければ言葉を発することに労力なんてほとんどない。なくない?
あるのだったら、それは言葉じゃなくて行動にあるような。
まぁなんでもいいのだけど、人って言葉に合ってないのに言葉に自分を合わせているような。
言葉はデコり放題。
こここまでかな。
ではおやすみなさい。