硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

無意味

移動距離が長くなると非現実感は増すけれど、梶井さんが檸檬で書いていたように何処に行っても同じだから、妄想でやるようになるっていう気持ちも分かる。僕はもともと移動時間にあまり頓着しない。大学のとき、愛媛から大阪に出たのだけど、帰るときには高速バスで6時間かかる。当時は景色が新鮮だったからうきうき車窓の外を眺めていたけど、ここ何年かはちと違う。

 

窓の外の生活を想像する。生活というものが年々分からなくなっているからなのか、外に人が歩いていると、なんだか安心する。この人はどういう風に生きているんだろうって。自分がこの生活圏で生きていれば、みたいな想像はない。なんでかって、自分はどこの生活圏にいっても生きていけるだろうなって思っているから。

 

不便さは個人的にはどうでも良い。パソコンもあったら良いけど、なかったら日記がなくなるだけど、生存とは関係ないし。でも、ヒグマ圏内では生活したくないなとは思う。日本の本州で熊以外の凶悪動物が居ないのはなんでだろうね。佐鳴湖にはワニが居てもおかしくないと感じたけど。それにしも熊とかトラとかパンダとかカバとか怖いわ。

 

ということで、浜松に行ってきて、24時間くらいで帰ってきた。友人がラインで何か直に会って話したい、僕の直感だと、弱ってるなって感じだったから、話を聞きに行かないとなって行ったのだけど、フットワークが軽すぎてびっくりしてた。



フットワークを軽くしているのは、個人的な自分のマネジメント。自分の感覚と行動を大事するっていうだけ。このあたりは定義付けが細かいのだけど、要は、僕は他人に期待をしないということ。今回を具体例として当てはめると、勝手に会いにいったっていうところが全てで、実際会えて話を聞けたとか、さわやかでランチしたとかは、おまけでしかない。

 

期待って、なんだか良い言葉のように使われているけど、個人的には対価関係の呪縛だと思っている。自分がやった分に相応したことが返ってくるっていう意味。もっと言うと、発話者の世界の中でしか生きられなくなる。



仕事で考えたら、期待しているって言われて意欲が増す人も居るだろうから、マネジメントの選択肢としてありうる。



でも、これも穿つと、期待って発話者の世界の中で伸びてこいっていうことなのか。





ともあれ。

 

友人は実際弱っていた、というか、他の人には話せないことを抱えていた。倫理観が備わっていたら聞けないし、伝聞したらただのありがちな情報でしかない。



言わなかったけど、人って結局は自分のことが一番大事なのだろうなって。

物理的な意味でも精神的な意味でも同じ。それは分かる。けど、僕がそういう枠の中でしかない好きに響くかっていうのはどうだろう。



閑話休題

 

友人宅にお邪魔したのだけど、子供達が興味津々だった。年子で4歳の娘と3歳の息子。やたらとくっついてくるなぁって、実際接したのは1時間にも満たないくらい。

 

でも、児童に好かれるっていうのは人生の統計論で初めてではない。

一般的な大人っぽい反応をしないからだっ勝手に思っている。可愛いねー何歳になったのみたいなことも一切聞かないし、なんなら対等に話聞いてみたいくらい。

 

幼児だろうと人間だから、自分に媚びてくるとかぐいぐい来る人が苦手っていうのもきっと本能的に分かる。今回の目的は子供と接するところにはなかったからさっさと帰ったけど、もうちょっと相手してあげた方が良かったかなっていう罪悪感はなくもない。

 

一般的には、子供って拙くて可愛らしいかもしれないけど、個人的には勉強対象だと思っている。変な話、自分よりずっと進んでいるし。

 

だから好かれるんかな。





でも、これって、大人世界でも全然変わらん。




これに対して反論があるんだったら聞かなくもないけど、面白くなかったら応えない。






遺伝でもないけれど、自分が自分だと思っている価値観って、普通に生きているんだったら親の価値観の遺伝がほぼほぼ全て。環境要因。本当の自分なんて気付かないほうが良い。





ところで。

 

時間への感覚も、環境要因なんだと思う。

電車が当たり前の環境と、車でしか動けない地理とか、そういう時間感覚で生tるしかない。交通機関が発達する時間の観念が薄くなる。

 

体内時計がズレる。



交通機関って、移動時間は短縮できる。

でも、僕の本質の時間軸って徒歩の世界。

 

徒歩の時間軸って、ゆったり感覚だってだいたいは思うはず。でも、個人的には全然違う。移動距離が早いって、変な話、世界を省略している。



省略した時間を他に使っているっていう訳でもない。徒歩で見える景色と,車窓の外の情報量どっちが多いか。例えば、植物の知識がなければ草は草で、花は花。

 

結局は、見たいものしか見てないし、興味がなければどんな事象も一般化される。




んで、人はいろんなことを都合よく世界にするけど、僕はそういうところでは生きてない。自分がそもそもどうでも良い。これって実証はできないけど、自分にとって都合の良い人は要らない。





そもそも都合が良いってう定義も分からんし。




ここは本気で考えていくとほんとに大変。

じゃあ、翻ったときに、自分は相手とかニュースをどう見ているのか。



何を持って自分としているかっていう話。




僕はほとんどの人を人間として見てない。

なぜなら。



おしまい