硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

たまたま論

クリーニングに出したスーツを取りに行ったら、向かいの立ち飲み屋で北欧男性っぽい人が外に出て赤ワインを飲みながら煙草を吸っていた。良く分からないけど好きな風景。

 

なんだか変な感じ。言葉の定義を考えるというのは広辞苑的な意味ではなくて、自分が特定の言葉をどういう風に遣っているかだと思う。広辞苑は個人的に欲しいけど。実家にある百科事典もいずれ読破したい。僕はどんな家庭にも百科事典とか家庭の医学が常備されているという観念が拭えない。今はネットで検索すればWikipediaとかがあるから一概には言えないけど、どうにも無防備に見えなくはない。僕は今のところ個人だから良いけど。

 

でも、外付けの情報があるだけで、情報を扱う技術がなかったら持ち腐れのような気もするけども

 

「法や倫理を越えた時、人の魂が見える時がある」と言ったのはサイコパスのまきしまさん。サイコパスは前提知識がないとなかなか読みとけない。僕もルソーの人類不平等起源論なんて読んだことがない。けど、たぶん言いたいことは素朴なところなのだろう。ルソーを踏まえて、言葉もネットも社会性を強めるための道具だっていう説も分からんではない。ネットは本音を見えやすい傾向があるというのも分かる。枷が1つ外れているから。器に対する危険がない。それだけで嘘が付けるのが人。これで何か得られるのかというと僕にはあまり分からないけど、仮想的な自分でも認められることで心が満たされることもあるのかもと。心は水物だから何で満たされるのかは定かではないし。

 

ネットと言えば、ほとんど動かしていないつぶやき場のアカウントで全く知らない人からフォローされたらしい。何をもってなのだろうとは気になるけども、まぁあえて紐づけていないだけで紐解けばここも見えるだろうし。まぁ理由はなんとなく分析できなきなくもない。紐解いたからではないはず。今のところ紐づけの欲求はほとんどない。というか、僕は自分が認められることに充足の観念がほとんどない。残念ながら。

 

という感じで自分が言葉をどう扱っているかに戻るけれど、僕はかなり頭がおかしいのだろうなと。これは解放というより、分析することで還ってきただけなのだろうなという感じ。

基本的に個別的な関係においては見下す人が多い。それでダメージを受けることはなくてダメージになるのは別のところ。という分析の先に、今まで振られてきてばかりの恋愛関係も分からんでもないなって。

 

ここも完全に自由とはいかないから言葉を選んでいる。

 

 

言葉の選択肢って疎通においては基本的に縛られているもの。僕は怠け者だから、当たりをつけた言葉をこれなら通じるかなって投げるだけで、相手が分からないとしてもさらに言葉を継ぐことはあんまりしない。そもそも通じないのが当たり前だと思っているから。だから人間関係があんまりうまくいかないのも知っている。

 

僕が理解されなくても良いやって思うのは、そもそも人は理解できるものではないっていうのが根っこにあるから。他人が自分の理解の範疇にはないっていう思想は人を人として見ることに繋がっている。だから、かえって来ることを前提としない。

 

でも。社会単位で見ると対価が返ってこないと具合悪い。何故なら、社会は自然とほぼ近くて、循環っていう観念があるから。労働には対価として賃金があるとかそんなやつ。っていう社会性を自分の目だと思って世界を見れば、返ってこないことがおかしいっていう感覚は正しい。だから旦那とか嫁とかに不平を漏らすわけで。

 

キリスト教徒ではないけれど、聖書物語は楽しい。し、なんとなくキリストさんの気持ちが分からなくもない。有名な言葉で左の頬を打たれたら右の頬も打たれなさいみたいな言葉があるけど、これって、理不尽を受け入れなさいっていう言葉ではなくて、自分を分析してみることなのだろうなって。でも、人のほとんどは自分の器を分析するほどの余白がないから、導くしかないって思ったのだろうなと。

 

これって人の本質だから、当然現在生きている人にも紐づいている。人々は歴史に学ぶっていう傾向がほとんどない。他人事だろうから。

 

ここで、当人の歴史について。

当人にしかないから、何を覚えていて覚えていないかとか、自分が歴史上で正しかったかみたいな改竄はいくらでもできるのが自分という1つの国家のこと。

 

僕は、自分に都合が良いように歴史を創り変えることはしたくない。自分の時系列の不具合は全部自責にしたい。と考えると、自分が歴史上の好きだった人と継続的な関係を構築できなかった意味も分かる。相手と合わせられなかった自分が悪い。

 

そもそも他人と生活できないっていうのもあるかもしれないけど。

 

 

要は。

 

あらゆる人間関係って、単なる巡り合わせでしかないということ。

人類の歴史が千万年単位で、たまたまこの時代で生まれた自分がもう1個たまたまで人と

出会っている訳。

 

 

視点によりけりだけど、広く考えたら、義務ではないところで関係している相手って奇跡でかない。この奇跡性が常識になれば世界はもっと平和になるかもしれないという空想。

 

ということで、出かけます。

 

 

おしまい。