硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

次世代

全然勉強に身が入らないのだけど、これはこれで新しい興味に向いている感じで楽しくもある。別に知識はなくならないし、収集癖は無限だし。昨日の日記は割と尖った意見書いているなぁと書きながら思っていたけど、読み返してみるとそう大して変な見解でもなかった。いつもそんな感じ。肩書なんてない方が良いのかも。

 

演劇の公募は通ったので、ここから本名で文章をネットに載せる。僕は自分の本名の音と字面が大好きだから、これはこれで新しい境地で楽しい。おそらく文体は変わらない。というか、この文体以外で書ける気がしない。

 

 

文体というか言葉の話で、Twitterで、身長がABCDEの順で高いときに、Cの次に高い人は誰かってアンケートがあった。本来の語用的にはBなのだけど、僕はぱっと見Dかなと思った。そして、結果の振れ幅はDの方が多めのほぼ半々。このアンケートをした人は読解力の低さを問題にしているのではない。日本語圏内にもブレがあって、むしろ個人個人で遣っている日本語が違うっていうって主張していて、好感が持てた。

 

この観念はずっとずっと考えていたこと。何故違う言葉を使っているのに通じるか問題。これって人間の本質にも関わっているかなぁと漠然と。

 

ところで、自分が読める小説の幅はどんどん広がっている。歴史小説はどうも駄目そうだなぁと食わず嫌いをしていたときに、前の職場で女性の方に歴史小説以外はジャンル問わず読みますって言ったら、男性こそ好きそうだけどって言っていたときに、同席していた男性が水滸伝楽しいって言っていたところから読み始めた。

 

この女性の観念は、きっと男が活躍する話を読むほうが男性は楽しいだろうっていうのがあったはず。確かに水滸伝は、女性が結構蔑ろにされているような描写はあると言えばあるけど、男だって死ぬし押さえつけられているし、単なるその時代の役割分担としか読まないし、登場人物に自分の性を投影させないから、歴史小説って、精霊の守り人とか図書館戦争とかと似たところがある。

 

そうして、言葉には観念がまとわりつくことになる訳だけど、伝わらなかったことを他責にしてしまう精神は、言葉について誤解していると思う。そうじゃなくて、伝わらないことは自責だって思える人はどれくらいいるだろう。これって、きっと自分の中の当たり前が他人にとっても当たり前だって思える人で、言葉を押し付けてきた層。

 

これが、男とは女とかっていうざっくりとしたお上の目線の威信を借りていたメリットとデメリット。こうやって言葉に含まれた固定観念もセットで使っていたから、その粗が私的されている。

 

 

この文脈で考えると、自分が読める文章とか、聞ける言葉とかみたいな意味で、疎通できる人の世界しか見ていないのかもしれない。疎通できる人って、他人は他人だって把握している界隈なのだけど、そんなに居ないような。小説界隈ではいっぱい居るけど、少なくとも他人を下げて自分を正当化する人は全然居ない。

 

もちろん相対化って大事な視点で、でも、これは向上を前提としないと成り立たない。なんでかって、下を見て安定する精神は地獄でしかないから。向上でなくても良い、変化とか。

 

 

つまり、日本人同士でも外国人として関わるのが本筋で、そうなってくると、てきとーに括ってきた自意識を細分化させて語らないといけなくなる時代。主語を大きくするのは劣等感の裏返しだけで、そこに対する反発があるみたいだけど、要は、個人が個人であるべき時代になりそう。個人で語るなら自分の属性はなんの後ろ盾にもならない、それでも語るのかという話。

 

おしまい。