硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

良いことは作るもの

職場のパソコンのデスクトップの散らかり具合が気になる。という余計なことも目に入ってくるようになった。たくさんあるとパソコンが重くなると何処かで見たからのパソコンにはごみ箱以外には、書類とアプリっていう2つのフォルダと今後の方針が書いているからメモ。あとはタスクバーにエクスプローラとメールのthunderbirdとWordだけ。青っぽいタスクバー。エクセルを追加するかどうかは迷うところ。もっとPCを活用するようになれば増えるのだろうか。PowerPointとかPhotoshopは気になる。

 

さて、でもないか。

 

仕事ではなんだか同期がしんどそうで気になる。いっぱいいっぱいになっている感じ。痛々しさで顔があまり見られない。たぶんすべての対応事例を知識として外付けで吸収しようとしているからだと思う。要は、問い合わせの問題とその答えっていう組み合わせがまたやってくることに備えようとしているということ。全く同じ問い合わせがくることはないから、何がポイントだろうって考えた方がよさそうな気がするのだけど、それを言って納得するだろうかっていうと分からない。職場じゃなくて準私的な場で、例えば飲みに行ったりしたら伝えるけど、その場を自分で設定するつもりもないし、たぶんなんとかするだろうし。

 

あと、先生ともう1人の上司では微妙にニュアンスが違うからそこの齟齬もいっぱいいっぱいの原因かもしれない。今週から先生なのだけど、先生は疎通に重きを置いていて、もう1人は即答というか教育に重きがある。根っことしては研修だから空気をつかんで欲しいっていうところでは共通しているからもっと気楽で良いのになと思う。

 

疎通能力の経験値は遥かに積んでいるのだから、もっとうまく自分を使えばいいのになぁと思う。僕も多少の余裕が出てきたから何処に引っかかっているかを教えてくれたら説明するのになぁとか。説明をして理解してもらうことでスキルが積めることになるし。

 

生の哲学的発言はとても好き。

 

人は自信がなさすぎる人にはつけ込んで高圧的になるし、こちらが自信満々過ぎる反発したくなるもの、これは個人の性質の問題ではない。デジタルは入力した情報に基づいてしか判断できないのがデメリットだけど、基準をいくらでも増やせる。アナログの基準は有限だけど、基準がないところで判断できる。などなど。

 

そうして僕はというと、仕事では結構ほくほくしてきている。新人育成のノウハウ凄いなぁと思いながら乗っておけば求められる人材には最低限なれるだろうという上で。限定された空間内での会話を楽しめている。立場が固定されているから、相手の立場上での人となりを見るのが楽しい。今の経験値では、女性の方がややこしくはない。これって自分の属性が男だからっていうところもあるのだろうけど。でも最初に対応したのは男性で、凄く穏やかな人だったけど。対話で心が伝わるとすれば、僕のここでの心は、あなたの話に興味がありますが一番強いものだろうなと。だから、対話の相手を想像しやすくはある。まぁ、ここだけには限らないけど。僕は男性だけど、別に解決脳はあまりない。あるなら肯定脳かなというくらい。仕事上では対処療法脳が一番いいのだけど。

 

ほくほくその1は、こういう脳の回路は全然使ってこなかったから、運動になるという話。この回路は日常に持って帰ってきても意味がある。自分を説明しようとはしなくても、何かを収集するときに説明するならどう言葉を遣うっていう回路があると、自分の中で整理できていないとできないからなんとなく吸収率があがる。

 

その2は、パソコンスキルの話。些細だけど、Excelでセルが結合した纏まりを他の纏まりに追加する方法。普通にコピペするとできない。ほくほくはこのスキルそのものではなくて、その発想から、自宅でまとめている刑法の構成要件要素表の作り方が改善できたこと。先生と飲む機会が作れたら、セルを結合するメリットとデメリットも聞いておきたい。

 

構成要件要素って法学部卒でも覚えているかどうか定かではない話なのだけど、要は犯罪とは何ぞやという型。犯罪という現象について語るなら最低限のものだと思うけど。某花のデモの人たちが把握しているかは定かではない。

 

おそらくだけど、犯罪現象っていう現実の蓄積から、抽象的に型を取って、これがあれば一応犯罪とするというもの。簡単なところだけど、殺人罪の場合だと、人を殺した行為は一応犯罪とする。でもそれが正当防衛だったりなんだりすると罰は受けないことになるかもみたいな。すごくざっくりだけど。要は、主体とか客体とか行為とか行為と結果の因果関係のひな型であって、現実で言う容疑者とか犯人とか逮捕とはだいぶ違う観念。

 

犯罪について語るのであれば、何が犯罪で何が犯罪でないのかっていう指標は把握しておかないといけないだろうなという話。自然に犯罪がある訳ではないし。

 

犯罪で言えば、猫をいっぱい誘拐してきて虐待して殺した事件に器物破損罪しか成立しないのはおかしい、猫は家族だから殺人罪と同じで良いっていう主張もあるけれど、これも抽象的に考えるとおかしい話。でもこのおかしさって、たぶん11人に対面で説明しないと無理だろうなという感じ。まず、家族と言いながら所有しているじゃんっていう事実がある。ということは、家族の観念に所有が含まれているという節もありきなのかどうなのか。

 

 

まぁ良いや。

 

なんだっけ。

 

聖書物語は新約聖書に移ってイエスキリストの時代に入ったのだけど、キリストさんは凄かっただけでもないっていうのは人間味がある。人が自然とついてきたとか奇跡を起こせたとかは合理的に考えるとややおかしい感はある。その性質があれば、世界をまるまる変えられたではないかって。まぁ歴史の話は記憶の話と似たようなもので、何を信じるかによるだろうなとは思う。違いは、信じるものが多いと歴史になるっていう感じか。

 

ともあれ。

 

これ書いたか忘れているのだけど、日本人の宗教観。無神論者が多いのが特徴だけど、本当は、基づいて行動する指針は外にあるから宗教とあまり変わらない。一番強いのは世間かなと思う。ものさしを他責にする傾向。世の中がこうだから自分はこうしているし他人にもそれを求めるのだ論。でもこれって日本の地理的な歴史を考察すると、もともと天災とか天候みたいなものが基準だったのではと思う。どうしようもない理不尽なのだから、それを踏まえて動くしかないっていう性質があるのでは。っていう単位が国家に移り、社会に移るにつれ、これって自分も使えるじゃんって、理不尽をふりまけるようになる。

 

これって、悲しいことなのかというと微妙なところ。個人の尊厳を守るっていう憲法が発足する前からそういう私的な社会としての階層はあった訳で、そういう理不尽の纏まりが公然なって、声が大きな個人が強くなるっていう時代ではある。ただ、そういう小さなまとまりでも、声が大きいだけでは強者に居続けられるわけではないから、自浄作用は期待できる。

 

でも、個人であることって、素朴に考えると当たり前のように思うけど、厳密に考えるとかなり難しい。これって自分が人をどう見るかと直結していて、人を相対的に見てしまううちは自分を個人としては見られない。例えば、歴代の好ましい人を共通項で括ってしまうと、それは個人を見ている訳ではなくなるし、ということは自分も誰かの共通項で括られても致し方ないということ。

 

そういう共通項を取り去った後でも個人で居られるかというのが個人主義の最終地点。個人が個人で居るだけで個人として認められるみたいな話は幻想で、個人で居るための努力が必要だっていう、資本主義とは別の階層の対価がないかもしれない努力を要するということ。

 

みんなこんな世界を求めているのかしら。僕はともかく。かなり大変だと思うけど。

 

という感じで、おやすみなさい。