硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

求心

久々にマヨネーズを買ったら、二段階蓋の一段階目が細い穴2つになっていて、何もしなくてもオシャレな盛り付けになる。素晴らしい。ここから食に関するデザイン性と機能性について少し考えた。

 

 

納豆はデザイン性を気にしなくて良い物なのだろう。調味料の違いで独自性を追求したり、機能性も気にしたり。味の違いは僕にはよくわからん。機能性では、まず、蓋にたれが入っていてフィルムもなく、蓋を半分に折るとたれが出てくるやつ。折ったら出てくるって、マーガリンとジャムとかでもあったような。これって資源の消費を削減するという意味ではかなり良いのだけど、そこまで普及していない気がする。それはきっと、納豆消費者の総量として資源より辛子だったのでは予想。そこで最近出てきたのが、従来のたれと辛子形式のままだけど、小さい袋を開けるのを失敗しないように押すだけで開くタイプ。どういう技術なのか分からないけど、溶かしてくっつけるみたいなことはしてないのだろう。

 

ここで学ぶことは、ささいなものの中にも技術の結晶がある、みたいなこと。使う側の一方的な視点から見れば、もっと使いやすくしろよと自分の不満しか出てこないけど、色々な面で凄く変化している。まぁこれってそれを追求することが対価として返ってくるっていう経済活動だからだけど。

 

でも何かが返ってくるから行動するっていうのは人間の本質。

その「何か」にはバリエーションがあるのも人間。ヘーゲルさん曰く思考するのが存在らしいけど。僕の対価は相手によりけり。先にあるのは相手の、需要じゃなくて許容。それ以外では、本を読むとか日記を書く時間を確保してくれれば問題ないかなと。料理を食べてもらうっていうのはそれだけで何か返ってきているだろうし。全く良い人ではないことも自覚済。だからややこしい。

 

さておき。

 

満月を越えたからかどうかは知らないけど、精神的にはだいぶ安定しているような気がする。自分の精神性を月齢で統計取っている訳ではないから定かではないけど。月齢と天災とか月齢とサーバーの不具合とか、この切り口で色々考えてみたら見えるものがあるかもしれない。ただ、見えるものがあったとしても周期的にやってくることは変わらないというやるせなさ。月をぶっ壊せる科学力があればどうか分からないけど、ぶっ壊したあとに何があるのかも分からないし。周期的じゃなくランダムでやってくるようになったらもっと大変。というのは、女性の月のものにも近いような。確か月齢と同じような周期ではなかったっけ。

 

まぁ、準備できるかどうかっていうのはささいなようで重大な違いだとは思う。人は精神性の中で生きているから、心構えというのは大事。男って外的な周期性の要因がないからなんとなく安定しているように見えるけど、括ることができるものがないだけで本当は波があるのではないかっていう仮説。ここに無自覚だからあまり関われない部分がある。

 

 

ともあれ。

 

仕事の話。

 

昨日とはうってかわって今日の対応相手は穏やかだった。穏やかではなかったのが先生でかなり負担がかかっていて、下にはやらないけど同等以上の立場の人に対してはなかなか当たっていた。これも月齢なのかどうかは知らないけども。この辺りもスマートだと思う。不満のポイントをちゃんと分けているところが好ましい。ストレスを投げやすい下には向かわせないように絞る。こういう上司が居る職場だと、行く行くは先生の負担を減らせるところまで積みたいと思える。飲みに行くことがあれば、何に特化すれば良いですかねって聞きたい。人として好き。

 

そうして、もう1人の上司は別の意味で好き。あだ名はまだ見いだせないけど、先生と共通項がある部分とない部分がある。おそらく同期に近くて、この二人にしか投げられないことがいっぱいあるのだろうなという感じ。この2人はちょっと違う軸に生きているような。

 

 

やれやれ。

 

 

今日は少し法律学の話を。

 

会社における株式の概念とか、憲法で認められる権利とはの部分を読んでいたのだけど、法律学と数学には通じるところとそうではないところがあるなって。数学ってまず現実にある数から始まる。リンゴが何個とか。それから進んでいくと、頭の中にしかない概念になる。分数の割り算辺りからかなぁと思っているのだけど。法律も同じ。まず自分が現実の中で自分に降りかかる法律はなんぞやというとことから。で、やっているうちに人が抽象化される。関係の学問なので。

 

違うのは、数学に関してはどこまで行っても自分の現実とは全く関係ないから抽象的な概念操作はできるけど、法律に関しては現実が関係してくるから、現実から離れた純粋な抽象的な思考はできない。例えば性的な被害を受けた人が、性犯罪に関して自分の経験から離れらないとか。

 

自殺の自由があるかどうかっていう憲法学の議論を読んだときに思ったのが、憲法上の存在って、肉体っていう器を主眼としているのだろうなって。もちろん、それでしか統一化できないっていうのは分かる。物は有体物だし、プライバシーとか名誉棄損も、そういう情報が公に可視化されるかどうかを基準とするのは最低限の網としては当然のやり方。

 

ただ、個人的に相手を捉える時に、こんなざっくりした網で良いのかっていうのは俎上に上げていい問題。自殺する自由を認める社会って、人の精神っていう見えないものを承認する社会だけど、これがまともになるために必要なことって、だいたいの人が自分の精神性を個別なものだって分けられる世界であって、器のコンプレックスとかをどうでも良くする就業を要すると思う。

 

自分が自分のままで承認されるっていうのは、相手を相手のままで承認すると表裏で、一方的に求めるのはおかしいことになる。

 

承認した上で、関係するための調整なら分かるけど。

 

最後。

 

戻ってくるけど、思考することが存在だっていうヘーゲルさんの定義は正しいと思う。ここでいう思考はきっと自分のことを範疇にすることも含めているし。僕の周りの人が自殺してしまったしたら、それは悲しいことで自分の精神の中で背負うことだけど、だからと言って、死ななくても良かったという方向でその人を責めることはないかなと。これってまったく関係ない他人でも同じ。自分の世界でしか見ていない。悲しいのは確か。念のため。

 

 

まとめると、人って、人を肉体に根がある現実的側面という器でしか見れないことが多いのだろうなという話。僕のこの日記がどの側面にあるのかっていうは微妙なところだけど。

 

おやすみなさい。