内省
昨日はご飯を食べに行ってゆっくり寝た。最寄り駅の近くで去年食べて美味しいと思ったところだったのだけど、なんとなくイマイチ。食材はいいもの使っているし、塩も美味しいのだけど、何かが違う。
ところで、料理漫画とかアニメが結構好き。食戟のソーマとか焼きたてじゃパンとか現実離れしているものではなくて、将太の寿司とか味皇が出てくるやつとか。タイトル忘れた。カツ丼の二度揚げとか、アルデンテを時間で計るやつ。中華一番は中間くらいかな。美味しんぼはあんまりみたことない。
んで、将太の寿司を今読み進めているのだけど、勉強になる。同じように調理しても、食べる人を意識すれば味が変わるとか、包丁は切ろうとすれば切れないとか。包丁研ぎ器買わねば。
ということで、あの店の味が落ちたのは、きっと何か怠慢があるだろう。心っていうのは現実で言えば時間に出る。言葉とか態度とか諸々。でも、逆に心を擬制することも現実からできる。良さげな言葉と態度で偽れば、なんとなく相手を尊重しているように感じるし、大体の相手はそれで通じる。
変なアンテナが発達したからか、自分に心を傾けているのかどうかっていうのが分かる。
断言すると語弊があるけど、これは自分が積み上げてきた情報と直感の組み合わせ。だいたいの人はだいたい心を傾けていない。っていうのは、自分はこうしてきたっていうことに相手をはめ込むアドバイスする人は、あんまり他人を他人として見ていない。
他人を他人として見るっていうのは、自分が培った自分の外にある他人を許容できること。自分が好きなことを語ることは誰でもできるし、無責任な教訓論もそう。
誰にでも使える語録っていうのは、一定年数生きていれば誰も持っている。
そうやって語録でしか交信しないのも生活の1つ。
さておき。
閑話休題。
西尾維新さんの掟上今日子シリーズで、天才とはなんぞやっていうフレーズがあった。
曰く、高度な努力をする資格、とのこと。
なかなか分かりやすい。
高度な努力って、努力辞めた人には別次元に見えるだろうけど、よほど突出してなかったらあんまり変わらないと思う。現代における資格には、それが生活の糧になるかっていうも然りだろうけど。
そうして、最後。
僕が一定の人に好かれるのは、僕が相手用の現実しか使っていないから。
これは、僕にまともな自分像がないからっていうのが前提だけど、これを違う同じような状況の人に流用はしないしできない。
自分の中で流用してそうだなっていうのは抽象化するとあるのだけど。
鏡理論で言うと、見たくなかった自分が見えてしまうのかもしれないかもしれないから若干申し訳ない。
色ろんなゴミ箱になる。
おしまい。