硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

見えるものと見えないもの

大宝律令を初めとした日本史の法制度の中身が気になる今日この頃。教養としての日本史という東京大学出版の割と古めの本。割と背景的なことにも触れてくれるのだけど、法制度は役職の名前と説明で留まっている。租庸調とか侍所政所とか、墾田永年私財法とか。なんとなく想像はできる。

 

今日は最初から本題。

 

識字率も今と比較すれば低かったのだろうから、当時の法律は誰でも分かるものっていう公向けというより、今で言う行政機関間の通達っぽいものだったのでは想像。通達っていうのは、現代行政法だと上級行政機関から下級へ向ける命令であって拘束されるのは対象行政機関だけで国民を拘束するものではないとされるものだから少々違う。んで、きっと細かいところは当時の国家を担う機関個人の裁量に任せられていたのだろうなと。つまり法は豪族とか貴族のためにあった。

 

でも、時代が移るにつれて、識字率は高くなってきたという認識。綱吉さんの生類憐みの令がどれくらいの率の国民に読むことができたのかって想像すると面白い。そうして、字が読めない人はその当時、人ではなかったのかなとか。今でさえ文盲って差別用語みたいだし。

 

僕は日本史より世界史の方が好きだから、こういう文脈で分析してみたい。世界史の方は宗教観と法ルールと文化みたいな観点の方が面白そう。日本史も宗教と法制度が繋がっている感はあるけれど。

 

そうして時代は現代に戻ってくる。今はほとんどの人が識字できるし、法律も最低限のルールですとされている。裁判所が判断するときも、一般人が具体的な場合についてこれが法に触れるかどうか判断できるかどうかっていうものさしが用いられていることもある。けど、法制度のしくみが細分化しすぎていて、自分がどういった法律に縛られて守られているのかを把握している人ってきっと法学部卒でもあんまりいない。ということは、識字率とはあんまり関係ないのかもっていう問題提起が芽生える。

 

文字が読めるといっても、あくまで何を読むかは任意であって、自分に関わっているといえ、世界の仕組みに対してどこまで気にするかっていうのは強制できないし、きっとしない方がいい。義務教育に法学教育をっていう憲法学者さんが居て、それを見たときは確かになと思ったけど、今はちょっと違うかなという気分。何故かというと、僕も小さい頃何か人に不快を与えたとき、法律で決まっているのかって言ったことがある。つまり、法律って拳銃と似たような圧倒的な力がある。こっちは暴力じゃなくて、権威だけど。

 

そういう力を持った人が全員正しくそれを使えるかって、なかなか怪しい。これができると断言できる人は、自分が強い立場になったときに下に理不尽を投げない自制を自覚できる人。いやいや、最低限の強制力しかないんですよっていう前提で教えることもできなくはないけど、ただ、この教え方で従う人がどれだけかって。人って権威を使うことも好きだけど、権威になんとなく従うことも好きだと思うから、うまくそれを使って国家をコントロールしてきたのだろうという側面もあり。

 

なんとなく従わないといけないものを全部取っ払ったとき、自分が人間的に振る舞えるって言える人ってどれくらい居るのかという話。そういうなんとなくの塊が社会生活には必須なものだから、自分の不都合だけ取り去るなんてことはできない。

 

なんの話か分からないことになってきているから、生身に少し戻そう。

 

 

個人的な関係性も似たようなところがあるなって思う次第。なんとなく自分の意向に従ってくれる人が居るならば、その関係において自分は権威とか力を持っていることになる。というのは別にありがちだから良いとしよう。優位性の中でしか人と関係している気がしないっていう人はいっぱい居る。

 

じゃなくて、言葉での言葉の関係性。関係の歴史がどれだけ積み重なっていようがなかろうが、自分のことを語るときには発話側は圧倒的な強者だなと思いついたことが今日の日記の根っこにある。厳密には、自分のことを理解して欲しい時に限りだけど。

 

そうして仕事の話だけど、同期の対応は自分が対応される相手だったら気持ち悪いと思ってしまうだろうなって感じる。弱者感を出した媚びが嫌だ。これって当人が情報とか知識的に強者になったら権威に変わるだろうなって。これで強者になっても変わらなかったら認識を改めるけど。

 

かといって僕の対応の拙さは別の話。最終型は、寄り添いじゃなくて穏やかさで安心感を与えながら説明することだろうとは思っている。抑揚で感情乗せるのはそこそこでもっと本質的なところだろうなと。

 

まぁいいや。

もっと言葉の話。

 

メルロポンティさんの言葉論を読んでいる。かなりややこしいから理解しきれてないけど、要は、知覚と言語は繋がっているものだってことなのだろうなって言う認識。

 

僕はあまり意識していないけど、一般の人が遣う言葉ってどれだけ抽象的な概念を扱っていても、自分から離れた言葉は扱えないということ。

 

つまりこの文脈だと、自分の言葉を理解できるかどうかの指標は、自分の知覚と相手の知覚が一致しているかどうかということで、器としての肉体を重視しているということ。自分が遣う言葉当たり前に通じるべきという観念がある。自分の中で理路整然に言葉を並べているつもりであれば、通じるのは当たり前という感覚。

 

でも、伝えようとするなら、ピンポイントの相手の知覚にも配慮するのがあたり前。これをやらずに、他人事で共感される相手を求めるのはややずれている。

 

僕が言葉を選ぶのは、別に自分の中にあるものを適切な言葉にあてるためにやっているのではなくて、この相手ならどの言葉が適切かっていう話であって、自分の本質が言葉で括られるとは思っていない。

 

この感覚って結構大事だと勝手に思っている。

 

 

では、おやすみなさい。