硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

ないもの収穫

どうやら逮捕されたみたいね。無差別に巻き込まれる前に逮捕になった、というより無差別を目的とはしなかったのかな、良く分からない。関テレ常務の息子だったのか。周到さからすると個人的には何か先があるような気がしないでもないけど、可能性的ものさしで考えると、一番なさそうな可能性を現実化させてしまう感がある。どの可能性も等価とするならよりなさそうな可能に重きを置かないと釣り合わない。変なの。

 

しかし、ざわざわは収まらない。単に満月のせいなのかもと思ってきた。満月の時は月の引力が最大化するから(間違えてないといけど)、人が不安定になる。狼男の伝説は案外事実の寓話化だったりする。狐憑きはどうなのだろう。人の成分で一番多いのは水分だし、影響がないことはきっとない。ともあれ、感じやすい人、かつ、本質が表面に上がってくるのが満月の日なのかも。僕の場合は、あまりよろしくないけど、死が近くなる感じ。厭世的とか自己肯定感がないという話ではなくて、僕がいなくても世界は回るだろうなという感覚。正しいけれど正しさだけではない、っていうのは外付けの諸々がある。

 

まぁ自分の最後のとき誰に何を伝えようかみたいなことはよく考えるけど。例えば地震で建物の倒壊に巻き込まれたときに、もう死ぬしかない状況でスマホが手元にあるときとか。何も伝えない方が良いと思われる人と、伝えても大丈夫だろうなと思う人と。この文脈で個人的に熊が怖いのは、熊に食べられながら実況中継しながら亡くなる話があって。これで言ったら、宇宙兄弟の事故で亡くなる前のレコードとか、山岳漫画で滑落した人が亡くなるまでの発言とかもそうだけど、極限状態で自分が何を残すのかっていうのは想定していてもきっと無理ではある。痛いとか暗いとか言いながら死んでいくのかもしれないし、死にたくないって言うのかもしれないし。まぁ、自発的に行ったりはしないけど、死は遠くないよなというだけ。

 

そういえば、「が」と「は」の使い分けというのを見かけた。「が」は事実で、「は」は主題ということらしい。なるほどとは思うけど、ある程度直感で使い分けているから知らなくても問題はなかろうと。

 

さておき。

閑話休題

 

死が暗い概念なのかっていうのも怪しいけれど、とりあえずご飯が美味しい(事実)。「は」でも問題ないけど。実家から送られてくる玉ねぎは何故こうも美味しいのか。紫じゃなくも硫化アリルをあんまり気にせずサラダにできる。ブナピー(真っ白なしめじ)を買ってみて豚肉と玉ねぎの半分とカレー粉炒めにしてみた。パッケージには、オルニチンが豊富だって書かれていて、これってなんだっけと思ったら、二日酔いに有効とされている貝だった。シジミ。でも、豊富と言われても、シジミと比べてなのか、他のキノコに比べてなのか分からないという。美味しいけれど。食で失敗したのは、帰りにスーパーに寄ってコーヒーを買ったのだけど、無糖と思ったらカロリーオフの微糖だったところ。人工甘味料の甘みって気持ち悪くなるから、申し訳ないけど捨ててしまおうかと思っている次第。カロリーが欲しい。

 

 

やれやれ。

 

満月が本質を曝け出す流れなのかは知らないけど、今日は仕事でお叱りを受けた。運が悪かったって先生は言ってくれたけど、確かにサーバーエラーだとしても、問い合わせの回答通りにやって不具合が出て、できないじゃないかって聞かれて、まだ確認中だって言われたら怒るだろうなって。三連続で同じ人物が回答してそうなったらしょうがない。めぐりあわせも悪かった。他の人が回答していたのを修正するなら、もっとやりようがあったのだろうし、知識と技術がもっとあればなんとかなった事例だけど、怒鳴られるのを受け入れるしかなかった。

 

先生は慣れが大事だって言ってくれているし、自分でもそうだと思うのだけど、こういう怒鳴り自体に慣れるっていうのも有益だろうなと思う。怒鳴れると体と精神が固まってしまうことから、毅然と対応するっていうこと。怒鳴り事象の根源は母親なのだけど、一時期そりゃあ凄かった。機嫌が収まるのを嵐が通りすぎるのを待つようにじっとしているしかなかったし。1つ覚えているのが、母が運転する車に僕と妹が乗っていて、祖母宅からの帰りの山道でヒートアップした母親がこれで良いのだろーって急発進と急ブレーキを繰り返したこと。なんでそうなったのかも定かじゃないし、本当にそれがあったことは証明できないから、捏造の感がなくはないけど、そこで考えていたのが、あぁ恐怖感を感じさせたいのだろうな、じゃあ怖がっている風に演技をしとくか。あとから妹にお兄あの時めっちゃ怖がっていたなって言われたことまでがセット。

 

ということで、人との対話に慣れるっていう意味では怒り事例にもっと接しすることが大事。私的な関係で怒る人は離れた方が良いと思うけど、社会には怒ったら相手をコントロールできるということで怒りを道具として使う層も居るから、そこに対応しなきゃならんなという意味。そういうときには相手の言い分を肯定してはいけないらしい。もっと怒り事例に当たりたいドМ。

 

どうあっても自分が拙いというのはしょうがないなぁ。なんでこんなに賢くないのか。それは、そこに重きを置いていないから。っていう自己完結はしているのだけど、それでは駄目だろうって外付けで改修工事をしている。

 

個人的な収集の話は全然面白くないからなぁ。というか、分かるように書けないか。技量不足。

 

おしまい。