硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

粘度

良く寝た。6時間寝て目が覚めたら6時過ぎで、起きる予定時間まで1時間以上ある嬉しさ。一睡もできなくて、予定時間まで1時間というのも最近あったけど、同じ時間でも長さが違う。当然二度寝した。これだけ寝たにもかかわらず、日中もやたらと眠かった。春眠。5月病、ではないな。

 

安眠の中で見た夢は、ある所に行って、探し人を見つけられなかったって連絡したら、本人から、ずっと受付で立っていましたと伝えられて、なんと、って思って目が覚めたというやつ。

 

目が覚めて最初に思った言葉は「認知の歪み」。

これは、他人が自分の認識を理解してくれないときに、相手をけなす言葉として一定の界隈で良く使われている言葉。もう眺めに行くのをやめたけど。

 

今日はこのフレーズが頭から離れない。

 

 

昨日の雨で公園の植物は随分元気に見えた。緑なのに青々。緑なのに黒板。お昼時間に「幸せスイッチ」を読み終わった。最後の変は哲学的ゾンビの話。これって自分以外の意識は認識できないってところから、自分以外の人は外界に対する反応でしか動いていないっていう哲学的な思考実験のこと、でいいのかな。最終的には、読み手以外が哲学的ゾンビだっていう風に持っていっていた。昼間の光の下で本を読むと、日陰でも顔を上げると、本を読む前と世界の色が違う。

 

僕は自分の認知が歪んでいないとは絶対言えない。これが何かの免罪符になる訳ではないけれど、そもそも認知が歪んでいないっていう状態が分からない。誰かに歪んでいるっていえる人は、自分が正しい認知をしているとか、控えめにいってもマシだと認知しているのだろうけど、僕はそう言える人の方が恐ろしい。まぁ、一定の範囲に収まる認知を正しいものだって捉えるのはありかもしれないけど、個人的には雑な気がする。

 

あと、感情は認知を歪めるのかなとか思っていた。

 

昨日怒鳴っていた人は、そのあと先生が対応したらしい。有名人とのこと。曰く、分かりやすいから扱いが楽だと。ちょっと呆れ気味で、それよりも淡々と言ってくる人の方が大変だとも。先生自身は気が短いと自覚していてコントロールしているけど、1年に1回か2回くらい爆発することがあるから、そういうときは逃げてくださいって言っていた。僕もこっち寄りだと思う。そうなったのだろうなっていう状態は人生で1度しかないけど、なかなか冷静に逃げ道を潰していたように思う。そんなことしなければ良かったと後悔している。

 

歪み界隈を覗く代わりに読んでいる森博嗣さんのブログでは、感情は全否定で理性は部分否定だって言っていた。確かに。感情で外界を測るとそうなるだろうなと。ただ、他人に共感を求めず自分の認知を観察することに限定すると、感情があるから世界の見え方に変化があって、気付くこともある訳で、それほど悪いことでもなさそう。

 

演劇の文章データ、1回通して読んだ。実際見たときよりも随分悲しい話だった。小説を読むときって、なんとなくの情景が頭に浮かびながら読むのだけど、これはそのイメージに代わって映像記憶が想起されながら。何が悲しいのかというと、より主観で読んだから。どこまで行っても閉じているのではないかっていう感覚はなかなか悲しい。文章化するのも面白そうだけど、言葉に色々と記憶とかねばつく感情とかが媚びりつきそう。悲しくさせてくれるのはありがたいのだけどね。

 

次読んでも微妙に印象が変わりそう。

まとめるまでに、あと何回読めるだろう。

 

認知が歪んでいるというより、移ろう感知をあるがままに捉えているだけかもしれない。

 

まだまだ結論には至らない。至るはずもないけど。

 

 

5月病ではないっていうのは、筋トレの方も、生活のペースが一定になってきてちゃんと時間を作れるようになってきたから。今日はクリーニングって法的にどう扱ったら良いのだろうっていう、現実と法律の間を埋める思考。寄託と請負のセットだろうなと当たりをつけて、色々と。寄託っていうのは、物を保管することで報酬を得るもので、コインロッカーみたいなのが典型なのかな。請負は業者に注文して家を建てるもので、家がちゃんと建ったら報酬を払うというのが典型。シャツとかを預かって(寄託)、綺麗にして(請負)、返す(寄託)契約がクリーニング。ただ、何故前払いになるのだろうっていうのが腑に落ちていない。

 

まぁ良いや。

 

寝よう。

 

 

おやすみなさい。