硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

天動説

雨に降られたくなかったから久々に通勤ラッシュの電車に乗ってみた。満員の閉塞感よりも人の流れに乗らないといけないのがしんどい。やはり、多少歩く距離が増えても自分で調整できる方が良い。あえて合わせるという前提があるなら問題はないけど。それは自分でそう決めているから。結局のところ、同じ現象でも自分の意識によりけり。意志なのかもしれない。

 

随分と涼しくなった。雨も止んだ

 

首の凝りをほぐすには胸筋の方から耳につながっている筋肉をマッサージする良いらしいというのを見て、鏡を見ながら揉んでいたのだけど、そういえば、喉仏がほとんどないなと。いつ出てくるのだろう。いや、もう出てこないのか。まぁどちらでも構わないし、なんならずっと忘れていたし、調べたこともないし調べるつもりもない。

 

さておき。

 

今日は人手不足で先生が仕事に入らないといけなかったから、実際に応対している人たちの通話をモニタリングしていた。なかなか大変そうだけど、相手にもある程度余裕があるのは少し気楽。まぁ怒鳴っている人の声も聞いたけど、なんとなくポーズっぽく聞こえた。まぁ、怒りを表現するって、基本的にはポーズだと思う。子供が親の顔色を窺いながら泣く、みたいな。まぁ全部が全部コントールしなきゃとも思わないけど、反発できない相手に向かわせるのはかなり子供染みているような気もする。怒りって対話っていうより相手を黙らせるためにあるよなぁ。

 

ともあれ。

 

演劇を見ていない人にはなんのこっちゃだろうけど、正義感というメディアが登場した意味が腑に落ちたような気がする。閉じた世界の崩壊。あんまり書いてはいけないな。

 

 

ヘーゲルさんの精神現象学は、なんとなくこのタイミングで出会うべくして出会えたような気がする。時代背景まで調べていないけど、おそらく現代日本と近しい状態だったのじゃないかと思ったり、思わなかったり。何か色んな新しい世界観が流入してきて、ものさしが錯綜した時代のように見える。そこで必要なのは、手に取れる何か。まぁ、結構信仰に寄っているような気もする。まだ冒頭だからなんとも言えないけれど。

 

 

今日はなかなか眠いけど、この流れで、義務教育に宗教教育を採用することの是非。今の世の中、かなりの種類の思想や価値観が採り入れられる。ネットリテラシーは叫ばれていると思うけど、もっと深刻なのが、思想リテラシーではなかろうか。体感はたしかに個人のものさしにとって一番強烈なものだけど、体感は重ならない。重なったように感じるのは自由で、内部を補強する用途に用いることは構わないと思う。ただ、この体感の疑似的重なりを思想として、自分にとって都合が良い物事ばかりを見て都合の悪いことを排斥していくと、世界が分断する。

 

賛否はあれ、日本は一応主流の考え方があったからなんとかなっていたけど、そういうなんとなくの一般論も通じなくなっていきそう。そうだとすれば、倫理観を宗教で学ぶっていうのは有りだと思う。僕もそれほど知っているわけではないけど、規模が大きくて歴史が長い宗教の出発点って、どれも、世界は不都合なものだっていう思想があるような。それをどう扱うかっていうので違いがあるし、時代時代で悲惨な使われた方をしたこともあったのだろうけど。

 

ただ、現実的に考えると、どこからどこまでの宗教を扱うかとか、教師個人の信仰によってどうしても教え方が偏ってしまうとかはありそうだし、宗教一般への不信感で世論みたいなところから反発が起こりそう。でも、自分の主観とは別に自分のことを見てくれている何かが存在しているっていう考え方は一定層の人を救いそうな気がしないでもない。

 

素朴に考えると、自身を意志でコントロールするっていう考え方も宗教とちょっと近い。叱咤激励している自分とされている自分って分離しているのでは。

 

 

今日はここまで。

死せる魂をちょっとだけ読んで寝よう。

 

 

おやすみなさい。