硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

関係値

寝る前に書いたけど更新されてなかった。

 

 

 

 

髪を切りに行ったら、いい感じに切ってくれるお姉さんが退社していてちょっと悲しかった。その代わり新人にイケイケの兄ちゃん風が入っていたけど、態度はかなりおとなしくて良かった。実際切ってくれた人は新人さんとは違ってマネージャー歴10年の人だったけど、結構いい感じ。豪快な体で繊細なカットをしていますっていう自己申告通り、手数が多かった。すきばさみについている髪をはじくように捨てるのはこだわりなのだろうなぁとか。

 

まぁ、自分が自分に一番良いカットを知らないから注文が抽象的になるっていうところがやや問題かなって思わなくもない。センスに任せてしまう。その時、自分の型通りにするのか、客のコンプレックスに合わせるのか。個人的には理容院の方が合っていると思う。そうして、お気に入りだった人も、次の所に務めて居ると仮定すればきっとネットにダイブすることで追えるとは思う。けど、徒歩圏内の場所より優先すべきことか言うとそこまででもないような、そうでもないような。

 

髪を勝手に切ることって傷害罪に該当するのだけど(今実際に裁判になったらどうかは分からない)、体を変化させる物事って、技術も大事だろうけど、結局人なのかなと思う。技術の良し悪しなんて素人には分からんし、自分のリズムに合う人に施術して欲しいのが人情だろうなと。マネジャーさんは全然話しかけてこなかった。顔に触る美容部員とかもそうだろうなぁと想像する。ホスピタリティ?

 

徒歩圏内と言えば、徒歩圏内の仕事が決まった。

面談があって、帰宅したらすぐに派遣の営業担当から電話があってお願いしますって。通勤ラッシュは関係なくなるのはありがたい。で、仕事自体も興味が持てるもので、部署の雰囲気もなんとくよさそうだった。一番は、面談をしてくれた部署の責任者の2人が穏やかだったところ。見下すみたいなところも一切なかったし、顔もくすんでなかった。

 

顔のくすみっていうのは、人相学とかが学問でやっていることだろうけど、要は人生の業が顔に出るというもの。僕は童顔に見られることが多いのだけど、これって顔の造りっていうより、時間を積み重ねることで人は変化するっていう観念が薄いからじゃないかとも思わなくもない。あと、頻繁に何かに腹を立てる人はそういう顔になるし、本当に穏やかな人はそういう顔になるというやつ。こういうのが学問として認知されにくいのは、反復可能性とか再現性があまりないところなのかな。

 

かつて、刑法学の学者が骨格で犯罪をするかどうかが決まるっていう傾向があるっていう説を提唱した。生来的犯罪者の骨格なるものがあるとのこと。そんなことないって一蹴された学説だけど、DNAの解析が進んだ今日だと再考されるかもしれない。犯罪因子で人を規制するなんて、アニメのサイコパスの世界だけど、管理社会で良いならそういう流れもありうる。DNA解析だと、

 

そうして、犯罪って誰が決めるものかっていうと分かり切っているけど、国家。で、国家からした犯罪因子って何ぞやっていうと、国家が規定した価値観を当たり前と思えないっていうことに帰結しそう。今はまだ表現の自由とか個人の尊厳を憲法が守っているけど、内部の対立のどれかに寄ってしまったらそうなる。社会不適合者を排斥する文化は、治安維持法の再来っぽい。人間が進歩していないっていうのはこういうところ。人間自体のレベルは上全然上がっていない。

 

優生保護法に基づいて強制不妊処置した障がい者の人に対して賠償することになったっていうニュースを見た。一律320万円が高いのか安いのかものさしによりだけど、これだって、出産前診断でどういう傾向を持った子供が生まれるかは分かりつつあるし、そこで産むか産まないかは決定できる訳で、これを殺人だって第三者が言うのは勝手だけど、第三者ものさしって勝手でしかない。

 

この流れで憲法の話をしたかったけど、ものさしの話も有力になってきた。

 

 

憲法について啓蒙しておくと、国民の三大義務は嘘っぱちで、三権分立の方が本筋かな。

憲法国民に義務を設定するものではない。三大義務は勤労、納税、教育だっけ。納税だけちょっと違うけど、これって国家を維持するために国民に協力して下さいっていうくらいなものでしかないような。国家ももはやカタログだから、この国家に属しているなら、強制徴収もしかるべくっていう感じ。税金とか年金の徴収率ってちゃんと対価があるって思わせればもっともっと滞りないと思うのだけど、当たり前ものさしでまだやっているみたい。

 

勤労も、働いた人に対価があるし、働こうとする人にも支援があるけど、働く気がない人には支援はしませんよってくらいの意味でしかない。明治憲法では義務とされていたのだろうけど。だから、夫婦間で嫁にお前パートだろう楽だろうみたいな精神的DVする人は時代遅れ。やったことない人は家事労働の労苦を知ろうと思わない。労働との対比で言ったら、労働は仕事した分が賃金で報われるけど、家事は報いがないのに無休で働かないといけないし、旦那のほとんどはそれを当たり前と思っているから労いもない。感謝の一言でもあれば関係は変わるだろうけど、当たり前な家庭で育ってしまったらものさしはそうそうに覆らない。

 

 

んで、教育を受ける義務はない。義務教育はあるけど、最高裁判所も確か言っていた。子供が教育を受ける権利があるっていうのが主眼。僕も含め今までの時代は競争でやってきたし、まだ偏差値信仰もあるけど、教育の本質は、人を見下さないようなものさしに気付かせることなのでは。義務教育でテストを無くすっていう手段もありけり。だって、親の劣等感で子供を操作するっていう傾向がなきしもあらずだし。勉強しろってやたらと押し付ける親は、優等だったにしろ劣等だったにしろ、勉強にものさしが置かれていたという説。

 

まぁ、小さい世界では、自分が知っていることを知らないことで精神エネルギーを補充する対価関係もあるのかもしれない。

 

こんなんだから、国が法学の教育を義務教育に組み込むっていうのは実際は難しいだろうなって思う。数学とか論理をしっかりやらないのも、国に対する矛盾を気付かれたくないっていうところもありそうな。

 

今、日本全国で選挙掲示板が張り巡らされていると思うけど、ここの選挙区で、ちゃんとしたポスターを作っていない人が居て、その人曰く、議員としての給料は要りませんって。1つの方策としては面白いと思うけど、逆に考えると、この人に投票する人って、議員の仕事に価値がないって評していることに等しい。かなりしんどい仕事だとは思う。インスタントに効果が出るものもないし。

 

まぁ政治家云々より、政治が変わるのは国民の意識が変わった時だと思うけど。

 

まぁ良いか。でもないか。

 

ものさしの話。

 

ものさしって、もともと誰かのものさしを借用しているものでしかない。第二次性徴くらいの段階で物事をより分けることはできるけど、その仕分けはまだ自分のものではない。なんでかって、本当に固有の仕分けって大々的に語れないから。

 

どれだけ外れていても抽象化すれば賛同者はあるかもしれない。例えば痛みと快楽がセットになっている嗜好。僕も噛まれるのは嫌いではないけど、痛みならなんでも良い訳でもない。意図が大事。哲学的に言ったら志向か。よくよく考えると性行為自体が痛みを伴うものだから、それを紛らわせるために気持ち良いっていう脳内麻薬が働いているっていう風に捉えることもできる。

 

そういうことをしているときって当事者じゃないもの。

三者目線。

 

やれやれ。

 

そうして、固有のものさし理論。

 

僕の素朴なものさしって色んなものがどうでも良いし、世界は不都合だと思っている。理不尽とは少し違う。理不尽をものさしに据えるなら比較が不可避で、それを言ったらもっと酷い境遇の人もいるし生き物も居るしで、矛盾が生じる。もともと人には矛盾が搭載されているから問題ないと言えばそうだけど、自分はこういう世界の循環には居ないなって。

 

人はほとんど自分の世界の外にあることを第三者目線か比較論で語る。んで、それを語られた人って、語った人が凄いとは思わない。信仰対象になれば別だろうけど。

 

自分のことを語るのはほんとに大変。

酔ってても酔えない。

 

 

僕の人格って、接した人の休憩所になる。

これってずっと自分が流され傾向だからって評価していた。止まり木理論。でも、今や学説が違う。可能性的ものさしなだけ。時系列上で昨日発掘した。相手のことも可能性でみるから、自分がこういう人物なのだって固定観念を持っていつつ、本当にそうなのかって無意識に疑問を持っている人には利く。

 

だから男性に対してはほとんど利かない。言ったところで自分を否定されるように捉えるだろうし、っていうのも固定観念だろうけど、一般的な固定観念は宗教と一緒で人が生活する面での拠り所だからそこに疑問を持っていない層は関係性の対象ではない。

 

本当の人間関係って、どっちでも良いとこにあるのじゃなかろうか。

 

ちゃんと痛いし、相手が痛いのも分かるけど、痛みは関係性におけるスパイスでしかないような。寂しさとかも然り。

 

自分が感じていることが相手も感じていることだっていうのは、偶然の一致だっていう観念が一般化すると楽になる人は増えそう。

 

ただ、こういう楽は後ろ盾がない孤独感とワンセット。

 

 

 

おしまい。