硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

住み分け

お腹が空いても思索に触れる方に優先価値を置いてしまうのは不健康極まりないような気もするけど、朝夜と食べているし、途中で水も飲んでいるから問題ないのかな。いっそ昼は無塩ナッツくらいにしようかとも思う。三食論は別に生物学的な話でもなくて、確か何処かの国の商業戦略だったようなおぼろげな記憶があるし、生命維持以上の食の話は趣味嗜好の領域だからいつ誰が何を食べようが自由か。

 

オリーブオイルの健康効果を調べるところから始まった。オリーブオイルも独特の癖があるから、慣れないと違和感があるから、ある程度訓練がいる。それでしばらく調べてみて衝撃的だったのが、エキストラバージンオイルって表記されていても表記を決めている国際なんとかっていう団体の基準が緩いから、含有成分がピンキリだということ。作り方で味が変わるなら分からんもないけど、モンドセレクションみたいなことなのかと。ちょっと違うか。

 

別にこういうことを調べるのは、選択の自由の枠内で調べること自体が好きなだけで、別に健康志向でもない。脳っていう器官にとって有用なものも調べたりする。魚とかチョコレートとかブドウ糖は良く聞くけど、水はなるほどなって。水分補給は仕事でも同じだろうけど。アボカドも良いらしいけど、定期的に食べたくなるのはそういうことかと(違

でも、最近全然安くならない。

 

あと、読解力みたいなものも見ていて、僕はあまり読解力ないのだろうなぁと思った。額面通りにあまり言葉を捉えないっていう素朴な直感と、いや言葉は記号だっていう後天的に習得した論理の矛盾で、なにかちぐはぐになっているような。

 

右脳左脳のどっちが優位かっていう診断で、ゆびを組むのと腕を組むときにどちらの手が下かで決まるっていうのを見た。僕は両方右脳優位で、感覚肌だということだったけど、これをちゃんとした研究結果ではないから信憑性がないという見解つきのものだったけど、確かにこの考え方も有りで、僕もあんまり信じていない。この診断が正しいとすれば、腕を組む時に意識して逆にすることを無意識にできるようになれば脳の優位が変わることになる訳で。ただ個人的な体感としては、自分の直感に違和感があるとされたところから、常識を疑う方向に哲学学が始まったっていうところはある。別に性自認異性愛だし、何か精神疾患の認定をされている訳でもないから、マジョリティーなのだろうけど、だからこそマジョリティー論理に受け入れられない部分があったというか。

 

 

さておき。

 

この前書いた強制性交等罪の事件って、訴因の問題もあったらしい。訴因は刑事訴訟法の重要論点なのに。訴因はざっくり言うと、検察官がこの犯罪が成立するか判断してくださいっていうもので、裁判所は検察官が準強制性交等罪で起訴したから抗拒不能が争点になってそれは認められないとなった訳で、控訴審で強制性交等罪に訴因変更して暴行又は脅迫が争点になったら判断は変わるかもしれない。

 

 

ともあれ。

 

なんだか、元号も変わったことだし自分が書いてきた文章を1回全部消去しようかなという衝動がある。勝手にしろよという話だけど、一応言っとこうかなと思うだけ。自分の文章ほとんど読み返さないし、きっと矛盾だらけだろうし。前に書いた時から自分の世界は更新されているから一概に矛盾とは言えないけど、他人から見ればきっと矛盾になるだろうなと。

 

 

そうして本題。

好き嫌い論。

 

何か違和感があった思想

 

子供は傷つきやすく弱いから、守らなくてはいけない。だから、子供に対して性的に見る嗜好を持つ人を社会は容認してはいけないというもの。表現することを認めて欲しいっていうことに対してかな。前提はなんとなく分かる。でも、後者は良く分からない。素朴に個人的感情として気持ち悪いとか、実際に害を与えたっていう形容詞句で限定したそういう嗜好を持つ人なら分かる。

 

これは、昔、漫画アプリで男性の性的不能者を揶揄した表現が、子供にこんなものを見せるべきではないとか実際にそういう障害を持っている人を傷つけたっていう文脈で炎上したのを眺めていた時にもあった違和感と似ている。何かいっしょくたにされているのことは感じるのだけど、だからと言って、その傷を訴えている人を批判したい訳でもないし、というもやもや。

 

そこで、というか、パターナリズムについて調べつつ考えてみた。

パターナリズムっていうのは保護主義って訳されるもので、要は○○という人たちはこうこうといった理由があって、完全な人より援助するする必要がある国家が守る。しかし、その分何かしらの制限がある。みたいなこと。

 

最初に出てきたのがたばこ増税の話だったけど、これは違うと思った。僕は喫煙者だからマイノリティ。タバコを吸う自由と吸いたくない、体調が実際悪くなる人もいるっていう調整で、場を住み分けましょうっていうこと。健康に悪いから減らさなければならないっていう目的らしいけど、憲法判断って立法者が規定した目的に限定されないから、医療費削減も含まれるかもしれないし、医療費削減のためにたばこを吸う人を減らすことを目的としてたばこの値段を上げましたでも通じる。

 

子供はまもるべき存在であるっていうのは分かる。歴史上、労働力とか性的奴隷みたいなこともあったし、今も世界で完全になくなっている訳でもないだろうし。ただ、ここに子供は判断能力が未熟だし物事の分別がつかないのが子供だって理由をつけるのはなんだかおかしい。子供は人ではないって言っているように見える。では、子供と大人の基準はどこなのかという話も出てくるし、18歳ですって言っても、その基準を決めたのは大人であって。だから、パターナリズムの話は、子供の未熟さを理由とするのではなくて、この世代の大人が子供にそうしたいと思っているエゴだくらいでいいような気がする。犯罪あたるものは犯罪とするのは当たり前だけど、ゾーニングだったら。僕が幼少期だった時代はテレビの自粛も緩かったけど、縛りをきつくしたら性犯罪が減ったっていう統計結果があるならまだしも。

 

ちょっとずれたな。

主張としては、子供が性的な目で見られることでトラウマになるから容認してはいけないみたいな話。容認の定義も一元化できるものではないだろうけど、誰もが目に触れるネットでそれを表明しないことを社会的なスタンダードにするみたいなことだと、いやいや、子供を一括りで捉えるのは子供を個人として見ていないようなということになる。ここで子供は自分と同じ人ではないっていうものさしであるって自認するなら分かる。

 

パターナリズムの論文はまだ完全に読みこんでないけど、教育の話だった。ここでは、自我の発達段階に合わせて教育をするべきで、一括りに児童とすべきではないみたいなところにいきつきそうだと予想している。これは凄く良い。個人的には自我の発端は最初にある環境だと思っていて、そこには学校も含まれるけど、何を勉強したかよりも教師も含めてどんな人と最初社会的に接したかの方が強そう。科目自体は中立だろうし。道徳は別か。

 

給食でも家庭の食卓でも好き嫌いはいけないっていうは教育としてどうなのだろう。

僕はたまたま好き嫌いもほとんどなくアレルギーはなかったけど、栄養で考えたら、他の食材でも代用はできるし、食わず嫌いも一般論としては認めるようなことを教育した方が良いような。個別論として、個人的関係において自分が好きなものを勧めるのは良いけど、そのときに皆食べているんだからって補強するのは違う。」

 

僕はたまたま自分の嫌いを克服したいっていう精神性だったから自分で料理するようになって色々食べて他の国の食材とか味付けも採り入れているけど、だからといって、皆それをしたら良いとは思わない訳で。修行みたいなものだし。

 

 

あとなんだっけ。

 

三つ子の一人を育児ノイローゼになって床にたたきつけて殺した事件で、何故か母親を擁護する署名が集まったっていうのも見た。僕はこの事件に対して母親の問題が社会的問題だって一般化するのもなんか危ういし、やっぱり子供は人じゃないのかっていう印象。刑法上胎児と人は違うけど、これは別に価値観の話ではなくて、処罰類型として違うというだけ。

 

 

多様性とは嫌悪の共存だっけ、原文とは違うかもしれないけど、これは至言だと思った。

 

ということで、好き嫌いと表現の自由の話。

どんどん文字数増えるなぁ。

 

つぶやき場はマウント取る場だなぁって思っていたけど、今日はまともに論理を追っている人をいっぱい見つけて、ほっこりした。上から目線でもなくて、論理というか理論というか命題を語るときって、自分の素朴な感情とは切り離さないといけないなとずっと思っていたけど、そういう層がほとんど居なかったから、論理とは言えくっつけるのが当たり前なのかと観測していたというだけ。頭は思索にうずもれていたけど。

 

素朴な好き嫌いっていう反応は許されて良いっていうのは、なんとなく冷たいというか優しくないように見えるけど、そう見えること自体が、感情は行動とセットだっていう、割と古い人間観だと思う。内面はともあれ、行動は切り離せるのが人間の理性であって、切り離していないのはどちらかというと差別=嫌悪としているものさしの多数派っぽい。

 

まぁ嗜好とか感情の表明が人格に直結するっていう考え方も分からなくはない。特に犯罪とかの有事の時に顕著だけど、他人って基本的に得体の知れないものだから、言語とか行動とかの表明から逆算するしかないし。ただ、人格自体があやふやなものだから、どう逆算したところで相手には辿りつけないし、自分にもたどりつけないっていうのが自説。

 

 

思想的区分が直感的に嫌だなぁって思っていた理由もなんとなく言語化できるようになった。結局のところ、属性で語ることが差別の芽になるからだろうなって。相手を属性で見るっていうのは認識のショートカットでしょうがないけど、自分を属性の代表者であるように括ってしまうと、自分すら個人じゃないのかって。属性の中での個人っていうのも分かるけど、じゃあ属性をとっぱらった個人として語ると良いのではと。そのうち変わる価値観だと思うけど。

 

でも、属性を提示しないと議論の俎上にすら上がれない、みたいなことはありそう。

 

 

眠くなったので、おしまい。

おやすみなさい。