硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

暗黒面

今日はコンビニで北家の塩焼き買ってきて、だし巻き卵を作って大根おろし多めにすって兼用にした。大根おろしは先の方が好き。サラダはレタスとワカメの自家製ドレッシングでチョレギサラダみたいなやつ。実際の物は知らないけど、にんにく、ごま油、塩コショウ、砂糖、煎りゴマ、酢。お酢を使わなかったら砂糖は要らないのだけど、酸っぱさをマイルドにするため。

 

 

さておき。

 

早く起きる習慣をつけようと早めにとこについたら、何故か二時間くらいで目が覚めて、あとは眠らなくて、昼間に断続的に寝ることになった。今日そうなったら、勉強することにしよう。大丈夫な気がするけど。インプットより自分の武器と薄いところを点検することの方が大事だけど、不安が勝るとインプット過多になるよなぁと。

 

刑法界隈がやはり騒がしいけど、理性的な弁護士さんは淡々と語っているし、理性的じゃない弁護士さんは、感情論で話しているような気がする。理性的かどうかっていうのは、結果が不当である、からして過程がおかしいってなるかどうか。多数派の感情だけで罪になるっていうのは、歴史を逆行するもので、魔女裁判の教訓はどこに行ったのやら。

 

新人弁護士さんと一般の人とのやりとりで思ったのだけど、性行為自体は合法なことが前提とされているのが今の強制性交罪等の思想であって、虐待とか痴漢といっしょくたにするのは違うよなと。痴漢も男が前提になっているからそのうち死語になりそう。

 

つまり、自由意志がある主体同士の関係においての性行為は両者が伴ってするものだから合法であって、そこに暴行脅迫、抗拒不能心神喪失みたいな、相互性を壊すことで犯罪になるという、他の犯罪、例えば窃盗罪みたいな、勝手に財産を取得したら基本は犯罪になる類型とは違う。合意なき性行為は犯罪だったとしたいっていう層が声を上げている。これは、完全合意と、今まで強制性交になっていた類型の間のグレーゾーンを全部犯罪にしようっていうことで、被害者目線になっているようだけど、公がそこに介入することを許すことになるし、感情が犯罪を決めるっていうっていう人民裁判を認めることになる。要は、男からでも是だから、民事っぽい泥沼の内輪もめが刑事裁判に持ち込まれるということ。

 

民事だったらありだけど、民事の方がもっと私人間のプライベートの方には干渉しないっていうことになっているから、結婚して不倫でもない限り、性的価値はなかなか認められないと思う。

 

これって、国が被害者に冷たいみたいな話じゃなくて、犯罪とするには、不貞行為とはっていう、人の自由行動を最大限認めようっていう本当の基礎からのリスクでしかない。国家が人の性行為を監視する社会ってかなり気持ち悪いような。

 

ただ、最近の判決では親と子の性交渉問題もあったから、一概には言えない。個人的にも気持ち悪いけど、これで子供の人格が壊れると決めつけてしまうこともなんだかおかしい気もする。

 

これって、厳罰化する前に、義務教育時代に、性交渉なんて人間関係の関わりの1つの方法でしかない。ただ色々リスクあるから避妊とか性感染症のリスクは減らせ。子供はその延長だけど別に直結してないし、性を大事にするかどうかは自分次第で、当人の価値は全然変わらないっていうのを教えれば良いと思っている。性は人の価値の一側面でしかないってなんで教えないのだろう。

 

痴漢云々も、触りたい人はきっといっぱい居るだろうけど(好意を持った対象に触れたいっていう衝動は男女ともにある)実際に触れるかどうか、行動に移ったらどうなるかみたいなことを教えれば良い。

 

昔はお触りできたみたいな話もセクハラ界隈で聞こえてきたけど、これっておおっぴらにできたのが男というだけで、暗数としてはどっこいどっこいな気がする。女性の性が、スキンシップとか性的加害で脅かされる観念だとしたら、男性の性は、経済力とか妻帯についてなじるみたいな対称性があったし、その外に若い男を触るとか地位を背景にしたショタコンもあったはず。暗数っていうのは都合の良いようには使えない。

 

結局は、変に禁忌にしているからおかしなことになっているという説。抑圧された人は抑圧されたことには反感を持っているけど、この反感を次世代は解放しようとは普通は思わない。自分がしんどくあった分、しんどくあれみたいな思想の方が主流のように見えるし、日本人一般とは言わないけど、性ってなんだか気持ち悪いものだっていう観念は一定数あると思う。知らんけど。

 

未知への畏れと興味はワンセット。

 

あと、刑法でいうと、精神障害の犯罪の被害者が、犯人は人間だからちゃんと罰してくださいっていう命題もある。これって責任能力の話なのだけど、確かに被害者目線で結果だけ見ると良くわからない観念。僕もそんなに分かってない。でも、ちゃんと犯罪であることを認識できて、なおかつ、それ以外の選択肢があってもあえて犯罪行為をすることができる能力っていうイメージ。だから、別に人間じゃないから刑罰がないわけではない。それだったら未成年も人間じゃないのかっていう話になるし。まぁここはもっと考えていきたいところだけど、変に難しい。

 

こんなの結果悪い論で言ったら分かりやすいけど、個人的関係ならまだしも、社会前提で共有するってなると危険すぎる。別に私的な関係でそういう風に考えるっていうのは分からなくもないけど。僕も自分の経験則と照らし合わせて無理だっていう考え方は分かる。けどこれも。

 

ここまでの流れは、なんだか他人に期待しすぎだろうっていう感じ。

 

 

そうして、聖書物語をよんでいるのだけど、モーセ十戒は有名で、民衆がしょうもないっていう。誰かに期待するっていう意味では等しい。モーセの指示で動いた民衆はモーセにやたらと文句を言っていた。原典とどれだけ乖離しているかは知らないけど、救ってくれるのだったら救ってくれよっていうおこがましさは、歴史は関係ないらしい。

 

 

救いなんて外からもたらさないし、救いが欲しいなら戒律をっていう観念は今必要な感覚なのかもしれない。何かを願うならそれなりの供物が要るだろうって。

 

そもそも、供物と思う関係が正しいっていう関係が一般的におかしい。

 

でも、よくよく考えると、幸せをあえて評する人ほどあんまり満たされてないし、逆もしかりだし。顕示欲と安心感は別物ではあるけれど。

 

 

最後、まだ色々あったけど、書きたいこと忘れた。

 

 

おしまい。