硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

選ばざるを得ないもの

昨日は夜ご飯を冷ややっこにして、風呂上がりの飲み物をカモミールミルクティーにしたら、そのまま寝入ってしまった。寝てしまったといっても、意識残ったまま思考が凝縮するやつ。何か色々発想している気がするのだけど、全部忘れてしまう。睡眠が浅すぎるから昼に意識が飛んでしまう。面白いというかなんというか、夜だと汗をかかないのに、昼だと寝汗になる。気温という説もあるけど、体温のバイオリズムはまだまともだなぁと思っている。では、まともでない部分は。

 

 

さて。

 

浄化の件で昨日、布団のシーツを洗って、床の掃除をして、シンクの掃除をした。スッキリしだすと際限がない。自己観察として、神経質とか潔癖症とか綺麗好きっぽいなと思った。けど、よくよく考えると、そういう振れ幅もあるというだけで、一貫性はない。ただの気分でしか生きていない。ということで周りは大変だろうなっていう、自己悪評価になっただけいまやカーテンも洗濯したい。

 

 

そして、朝方色々だいぶしていたら、Twitterでたまたま言論闘争みたいなところに迷い込んでしまった。僕は、自分の考えは自分の考えだって言えばいい訳で、自分は思想上こういう派閥ですって表明しながら語る人って苦手。だから僕はフェミニズムくらい分かるけど、ミソロジーとかもっと細かくなると分からない。

 

テーマ自体は刑法の改正だから、思考対象なのだけど、ここから先は生々しくなるから、苦手な人は読まない方が良いかも。強姦罪、もとい、もう法律上死語だから強制性交等罪についての話から、道徳と法の分かれ目とかの話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい。

 

性行為に同意がないことが犯罪だっていうっていう主張。これってかなり難しいところで、感情とか経験の話でもない。真面目に書く。今日長くなるなぁ。

 

刑事裁判上で考えると、同意がないことを要件とした場合、その立証責任は検察官にある。これは刑事裁判の鉄則で、刑罰は国民に対する最大の人権侵害だから、刑罰の発動要因である犯罪は厳密に立証されなければならない。ここに被害者である女性は統計的に立場が弱いから同意があったことを加害者に立証させようっていう主張は持ってきてはいけない。裁判で証拠にできるものって限られていて、これって司法機関である国に恣意的運用を許すことになる。法律とか検察官が味方だと思っているみたいだけど。

 

刑法は、犯罪と処罰感情を分離しないといけない。

 

ただ、弱い立場である類型を引き上げようっていう立場は、民事の法律の考え方としては十分ありうる。そうやってできたのが労働基準法とか消費者契約法とか借地借家法だし、強制性交に関しても、不法行為として立証責任を転換するということはできそう。

 

刑法と民法の違いは、被害者が当事者になるかどうか。刑法って被害者は関係ないのが本来で、被害者の状況とか発言っていうのは、犯罪の立証のための証拠に過ぎない。今や少し変わってきているけど、刑法はもともと具体的な被害者救済のためにはできていない。犯罪と刑罰を規定して運用することによって将来の被害者を救済するっていう機能はある。いやいやお金じゃなくて、処罰すべきだろうっていう考え方も分かるし、そうすれば将来の被害者も減るっていう考え方も分かるけど、これを主張している人って、本当に被害者を救済したいっていうより、男性性に関する嫌悪感みたいなものが根っこにあるように見える。

 

なんでかって言うと、現行法上、強制性交等罪って、男女問わず加害者になりうるのだけど、語る人は女性が被害者になることしか想定していないように見えるのがまず1つ。いやいや、そういう人としなければ良いってあるけど、パートナーが別れたあとどうなるかも分からないし、分かっていたとしても自分は含まれないから嫌悪感を解消したいのではって。死について! で、エイズの人が死んだときどの葬儀者も受け入れなかったけど自分は受け入れたって葬儀業者の人の話を見た後だと、言葉だけで語っているのはなんとも軽く見える。あとは統計的偏向かな。

 

親告罪から非親告罪になったのだけど、あぁこれは説明が必要な部分か。親告罪っていうのは、被害者が告発しないと起訴できない犯罪の類型。あんまりないけど、名誉棄損罪と侮辱罪はそう。んで、非申告罪は一般的な被害者が訴えなくても逮捕されるもの。

 

 

ところで、犯罪は何か人の利益を守っている。保護法益という観念で、例えば殺人罪だったら人の生命で、窃盗罪だと財物とか、逮捕監禁罪と人の身体的移動の自由とか。そして。性犯罪に関しては性的自己決定権だっていうのが今の主流っぽい。のだけど、それの論拠として親告罪であることが1つの論拠だった。

 

ただ、これが現実的な社会現象としてズレているっていう部分もある。もともと日本の刑法は条文上同意を問題としていないのだけど、何故か同意があったかを問題としているし、ってことは、性行為を受け入れたのであれば同意があったに違いないみたいな物差しを前提としているような気がしないでもない。裁判官が生きてきた時代は昭和で、法的判断に価値観が紛れ込まないことはない訳で。

 

ただ、児童虐待とか家庭内強制性交みたいな部分にはだいぶ法が入り込みだしたような気もする。これって被害者に選択肢がないから。ただ、父親が娘にそういうことをして有罪になった後に母親と娘が執行猶予にしてくれっていう嘆願書の例で、母親がおかしいとか娘が言わされているっていう意見を見ると、やっぱり具体的な被害者っていうより性的嫌悪感なのではっていう見方。

 

 

これを踏まえて、性的自己決定とはなんぞやという話。

財産だったら自分が買い替えようと思っていたものでも勝手に捕られたら勝手に犯人は捕まる。もちろん裁判になるかどうかっていうのは別の話だけど、当事者同士で折り合いがついたら不起訴処分っていうことはままある。強盗だったら問答無用。

 

これを性的自己決定のなぞらえるなら、強盗と平行した強制性交とパラレルに、意思に反した自身の性的自己決定を奪われたことを窃盗と並行して処罰するみたいなことだけど、それって本当に自己決定なのかっていう部分がまず1つ。確かに痴漢とか盗撮とかそうだろうし、そこを処罰できないことは問題だけど、これを男女論にするのはどうなのか。自分に性的価値があるっていう観念を無理やり押し付けている風。もともと持っている人には良いだろうけど。

 

 

もう1つが、性的観念って道徳観と繋がっているから、法が手出しして良いのかっていうところ。そりゃあ諸々に性的嫌悪感を持っている人にとっては道徳的価値観と一致して、お国が後ろ盾してくれるのだからありがたいだろうけど、法が道徳に手を出すことは治安維持法の再来になる。

 

もちろん法と道徳に繋がりがない訳でない。法律婚が通常ルートだっていう観念が典型的か。これは法律が道徳を作っている例。母子家族とか父子家族の子供をいじめることにつながる。つながっているだけで、実際そうなるかは別。異質なものは排斥する風土だと今のところ観測しているので。

 

痴漢とか盗撮とか強姦と一緒くたになっているけど、同意があることを要件とすることは、自由な同意を殺すことになる。ムードとかの問題ではなくて、個人的な関係に法が介入してくるということ。

 

外国は同意を要件とすることが主流だっていうのも、条文上そうなっていることと、実際の運用がどうなっているのかは別の話だから、そこまで書いてくれないと分からない。んで、実際証拠として何をもって同意とするのか。女性の発言を重視するなら逆差別だろうし、同意を求める方にアクションが要るっていうのも分かるけど、これって刑法の管轄なのかと。

 

 

制度を批判することって誰でも手っ取り早くできる。Twitterでやられている論争は、論争の名を借りたマウントに見える。議論とマウントの違いは、もっと適切な結論があるかを期待しながらなのか、自分の結論に相手を合わせたいのか。

 

なので、制度設計論。

 

性行為に同意を要件とするなら、例えば知り合って3か月以内の性交等は不同意を推定するという規定。刑法的には無理かもしれないけど、民事法的にはありうる。お金をかけずに性欲を解消したいっていう層に対して、業者さんより両性のどちらかにお金がかかるっていうのは抑止力にはなりそう。こういうのが気に食わない層が多そうだし。

 

んで、常習的性犯罪者には、昔の宦官みたいな処理で良い。もちろん女性では卵巣摘出とか。平等ってこういうものでは。死刑っていう人の全部を消去する処理が許されるなら、人の機能の一部を殺して社会に戻すっていう制度もありうる。ただ、こういうことをすると、何が一部かっていう定義によって色んな昨日が殺されそうではある。個人情報やたらと横流しする人の舌を奪いましょうとか。

 

 

家庭内の強制性交に関しては、税金から経済的父権者から離脱する保護施設を作るべきでは。児童福祉施設もあるみたいだけど、あんまり認知されていないようだから義務教育でそういう施設があるって逃げ道があることを教えるべき。教育委員会がどう考えているかは知らないけど。

 

っていう流れでいうと、専業主婦とか兼業主婦が旦那に従属されているのに対して、逃げて独立できる道っていう援助機関があって良い。シェルターはDVから逃げるところだけど、暴力まで現実化していない、経済的従属性から逃げる道を作る方が女性の社会進出が進むと思う。僕はお金を至上としている価値観はほんと駄目で。

 

 

何か思想的な立場を語るとき、語られた人として、きっとお前はどんな立場なのだってなると思う。要は思想とか素朴な価値観して同じかどうか。

 

あいにく、僕の素朴な性観念は貞操観はもはやないし、性行為はめんどくさいから同意でしかないし、同性から強姦まがいでまったく興奮しない性交等みたいなことはあったけど、別に自分自身とは関係ないなって思っている。匂いは残っていたけど、これがPTSDだったという説はある。

 

でも、発話した人がどういう立場なのかが気になるなら、それは言葉自体を見ていないよなということでは。言葉は無価値なもの。個人的男女観で言うと、人間自体が恐ろしやっていう観念。だからどっちの性にも味方したくない。性を公で語っている時点で人間っぽっくない。だって、人間って性から超越した個人なのでしょう。個人的な関係では別だけど。

 

まぁこの辺りは皆それぞれ考えたら良い。法律の後ろ盾が欲しいならそうんだろうし、素朴な価値観が一致してないところを自分で観察しても良いし。

 

僕はどちらかと言えば男性の観念の方が嫌いだっていうのはどこかで書いたっけ。議論は好きなので、何かあればとは思うけど、人って議論好きじゃない。議論と闘争の違いはどこにあるか。

 

そうして、最後だけど、また新しいことを見つけてどきどきしている。

 

劇評。演劇に対する論評だろうけど、評論って基本的に相対評価。もしくは絶対評価が芸術的か。僕は誰かっていう不特定多数にこの作品が良いのだっていう書き方はできないし。それでもやってみたいところではある。

 

最後。

 

 

僕が一般的な関係を嫌うのは、人に対する観念が薄いところ。

テレビも駄目だけど、論争的Twitterの場も精神的にきつい。よくなんの成果もなさそうなところでやっているなーて。何が原動力なのだろう。

きっと信念ではない。

 

こうやって、原動力のメカニズムが違う人類を統一化することはまず無理である。

 

 

おしまい。